史料による記述
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「クウィチェルム (ウェセックス王)」の記事における「史料による記述」の解説
クウィチェルムの記述は少ない。主に9世紀に編纂されたアングロサクソン年代記と彼より100年後の時代を生きたノーサンブリアの歴史家ベーダ・ヴェネラビリス(以下「ベーダ」)によるものしかない。
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史料による記述
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「キュネイルス (ウェセックス王)」の記事における「史料による記述」の解説
アングロサクソン年代記の611年の項目にこう書かれている。 “ 「この年、キュネイルスはウェセックスの国を継いだ。そして31もの冬を越した。キュネイルスはチェオルの息子、チェオルはクタの息子であり、クタはキュンリッチの息子である」 ” 同じく年代記の614年にはこう書かれている。 “ 「この年キュネイルスとクウィチェルムはともにバンプトン(Bampton)で戦い、2000と46のウェールズ人を屠った。」 ” この項目の記述に矛盾してベーダによれば、626年にノーサンブリア王エドウィンの暗殺が西サクソン王クウィチェルムによって試みられたとある。このクウィチェルムがキュネイルスと同時代の620年代のウェセックス王であり、またキュネイルスとともにキリスト教に帰依し洗礼を受けた人物であったかは意見が分かれている。一部では、このクウィチェルムはキュネイルスの息子ではなかったかと憶測されている。 キュネイルスはクウィチェルムとともに628年サイレンスターにてマーシア王ペンダと戦った。年代記ではキュネイルスの勝利のように書かれているが事実では敗戦であり、ペンダの勝利であったようである。この時までにキュネイルスとクウィチェルムはエドウィンに臣従した模様であり、大規模な土地が貢納として上納されたと言う。 630年代に聖ビリヌスが首都ドルチェスターに住居を構え、キュネイルスとクウィチェルムがともに洗礼を受け、バーニシア王オスワルドを名付け親としたとされる。もう一人のウェセックス王クスレッドは661年頃に没したものと思われる。名付け親となったオスワルドはキュネイルスの娘と結婚した。娘の名は分かってはいないが、後世12世紀の修道士ダラムのレイナルド(Reginald of Durham)は彼女の名はキュネブルガ(Kyneburga、Cyneburg)であったと言う。このキリスト教の洗礼は後の世代に影響を与え、次期の王にして息子とされるチェンワルフはペンダにより故国西サクソン王国を追われてからの646年になるまで洗礼は受ける事はなかった。 キュネイルスの没年は分かっていない。ベーダによると彼の王位はチェンワルフによって継がれたとされ、それは643年の事であったと言う。 チェンワルフとオスワルドに嫁いだ娘のほかに、キュネイルスにはクウィチェルムという息子がいたとされるが、彼が前述の史書に残されている王と行動をともにしたクウィチェルムであるかどうかは分からない。後に王位を継ぐチェントウィンはキュネイルスの息子であるかと言われているが、この記述の出所は後付によるものである可能が強い。
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史料による記述
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下赤坂城に立てこもる楠木正成と護良親王に対し、幕府軍は攻撃を仕掛けた。戦闘の明確な始期は不明だが、9月14日には既に下赤坂城に対する攻城戦が始まっていたらしく、和泉国の御家人の和田助家はこの日はじめて「楠木城」への合戦に参加している(『和田文書』)。ただし、9月11日に幕府30万が攻めたとする『太平記』の記述とは違い、9月中にはまだ鎌倉幕府正規軍は到着しておらず、小規模な戦いだった。 文学作品である『太平記』では、笠置山攻城戦がすぐに終わって手柄を立てられないことに落胆した鎌倉幕府軍は、一度も入京せず、消化試合として下赤坂城に攻城を仕掛け、無名の武将・楠木正成を侮ったため、奇策に翻弄されたかのように描かれている。しかし、実態としては、鎌倉幕府は本格的な決戦の前から正成を脅威と認識しており、はじめから正成ただ一人を粉砕するために一度京に参集し、そこから正規軍全4軍という大軍を差し向けている。『光明寺残篇』10月15日条によれば、鎌倉より上洛した幕府の正規軍全4軍が、この日、京から下赤坂城に向けて一斉に出陣した。すなわち、大仏貞直は宇治から大和国(奈良県)へのルートを東進、金沢貞冬は石清水八幡宮から河内国讃良郡へ南進、江間越前入道(北条時見)は山崎から淀川を沿って四天王寺へ出る西南ルートへ進み、そして足利高氏(後の尊氏)は伊賀路を西進した。この正規軍はおそらく翌10月16日に下赤坂城に到着し、正成に対し大攻勢を仕掛けた。 正成が正規軍到着後に何日持ちこたえたか、そこに『太平記』で描かれるような奇策があったかどうかは不明だが、いずれにせよ、この周到な準備を以ってしても幕府方は正成の殺害と護良親王の捕獲に失敗した。正成一人に翻弄される鎌倉方の失態は、翌々年の正慶2年(1333年)閏2月1日には、京の落ち書きに「くすの木の ねはかまくらに 成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」と嘲笑されることになる(『道平日記』)。
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