王位を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
348年8月、慕容皝は狩猟の最中に馬から転倒して重傷を負い、その傷がもとで翌月にこの世を去った。死の間際、慕容儁を呼び寄せて後事を託すと共に「今、中原は平定されておらず、世務(この世の務め。ここでは中華平定を指す)を図る為には、賢傑(才知が傑出している事)なる人物の助けを得なければならぬ。恪(慕容恪)は智勇共に申し分なく、その才覚は重任に堪え得るものだ。汝はこれに委ね、我が志を果たすのだ。また、陽士秋(陽騖)は士大夫の品行を有し、高潔・忠幹にして貞固があり、大事を託すに足る人物である。汝はこれを善く待遇するように」と遺言した。 11月、父を龍平陵に埋葬した後に燕王の位を継ぎ、領内に大赦を下した。また、東晋へ使者を派遣して父の喪を報告した。さらに、弟の慕容友を左賢王に、左長史陽騖を郎中令に任じ、その他の文官・武官についても能力に応じて進位させた。 349年1月、この年を燕王元年と定め、父の時代同様に東晋の元号は用いなかった。但しこれは東晋との従属関係を否定した訳ではなく、周王朝に従属しながらも独自の暦を用いていた春秋時代の列国の故事に倣ったものである。 4月、東晋穆帝は謁者陳沈を前燕へ派遣し、慕容儁を使持節・侍中・大都督・河北諸軍事・幽冀并平四州牧・大将軍・大単于に任じ、燕王に封じる旨を告げた。この承制封拝(官職の任用と爵位の授与の事)は、慕容廆・慕容皝に倣ったものであり、慕容儁が正式に後継者として認められたという事である。
※この「王位を継ぐ」の解説は、「慕容儁」の解説の一部です。
「王位を継ぐ」を含む「慕容儁」の記事については、「慕容儁」の概要を参照ください。
- 王位を継ぐのページへのリンク