王位争奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 09:42 UTC 版)
「ストーク・フィールドの戦い」の記事における「王位争奪」の解説
テューダー家出身のヘンリー7世はランカスター派の後継として王位を得て、エリザベス王女との結婚で旧ヨーク派の取り込みも進んでいた。しかし、まだその支配は完全ではなかった。 生き残った中で最も有力なヨーク派の後継者は、エリザベスの従弟に当たるウォリック伯エドワード(クラレンス公ジョージの息子)だったが、この少年はロンドン塔に収監されていた。 このウォリック伯エドワードの名前を騙るランバート・シムネルという少年が、やはりエリザベスの従兄にあたるリンカーン伯ジョンの目に留まった。リンカーン伯はヘンリー7世と和解していたが、リンカーン伯自身も王位継承権を持っており、最後のプランタジネット系の王リチャード3世は生前、ウォリック伯とリンカーン伯を次々と後継者に指名していた。リンカーン伯はシムネルの正体を知りながら利用することで、ヨーク派の復讐と王位回復の機会を得た。 リンカーン伯は1487年3月19日にイングランドの宮廷を出て、叔母のブルゴーニュ公妃マーガレットのいるメヘレンの宮廷に行った。マーガレットは資金の他に老練なドイツの指揮官、連隊長マルティン・シュヴァルツの下に1,500人の一流のドイツ人・スイス人傭兵を揃える形で軍事援助も行った。メヘレンのリンカーン伯に、テューダー朝に反感を持つ、リチャード3世の忠実な支援者だったラヴェル子爵フランシス、ジャージー島の前知事リチャード・ハールストン卿、カレー駐屯軍の司令官トマス・デイヴィッド、といった貴族たちが合流した。
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