王位をめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 06:50 UTC 版)
「コンラート1世 (モンフェラート侯)」の記事における「王位をめぐる争い」の解説
1189年、ギーはサラディンにより解放されるとティルスに赴きコンラドから市の鍵を奪おうとするが、コンラドはこれを拒否し、逆にハッティンの戦いにおける敗戦でギーは王たる資格を失ったと主張した。彼はギーとその妻で正式な王位継承者のシビーユの入城を拒んだが、ギーとはアッコンの港に対する数年にわたる包囲戦で協力する。 包囲戦の最中、1190年にシビーユとその娘たちが病死すると、王位継承をめぐるギーやその他貴族たちとの争いにコンラドも巻き込まれる。このような中、各地でアイユーブ軍を撃退して勇名を馳せたこと、その家格などからコンラドは支持を集めるようになった。本国の親戚たちの助けも借り、コンラドはエルサレム王国のアモーリー1世の娘で、シビーユとは母違いの妹にあたる王位継承者・イザベル1世と結婚している。この時、以前結婚したテオドアはまだ生きていたため重婚の疑いもかけられたが、戻ってこない彼に対する離婚の申し出が東ローマの方からあったとも見られ、さほど大きな問題とはみなされていなかったようである。彼は王となる資格を手に入れたが、なおもギーらは反対しており、王に即位することは出来なかった。
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