サポヤイ・ヤーノシュ
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ヤーノシュ1世 I. János |
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ハンガリー国王 (対立王) |
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在位 | 1526年 - 1540年 |
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出生 | 1487年2月2日 スピシュスキー城 |
死去 | 1540年7月22日(53歳没) セベシュ |
配偶者 | イザベラ・ヤギェロンカ |
子女 | ヤーノシュ・ジグモンド |
家名 | サポヤイ家 |
父親 | サポヤイ・イシュトヴァーン |
母親 | ヤドヴィガ・チェシンスカ |
サポヤイ・ヤーノシュ(ハンガリー語: Szapolyai János, Zápolya János, クロアチア語: Ivan Zapolja, スロバキア語: Ján Zápoľský, 1487年2月2日 - 1540年7月22日)は、ハンガリー王国の対立王。即位以前はトランシルヴァニアの領主であった。父はサポヤイ・イシュトヴァーン、母はチェシン公国の統治者プシェミスワフ2世の娘ヤドヴィガ。
生涯
1487年、スピシュスキー城で生まれた。サポヤイ家(Zápolya)はザポリェ(Zapolje)を発祥地とし、トランシルヴァニアを基盤とする豪族で、サポヤイは1514年に起きたドージャ・ジェルジ(Dózsa György)率いる農民反乱を鎮圧し、首謀者であるドージャを残酷に処刑した。
1526年、モハーチの戦いでラヨシュ2世が大勢の兵と共に戦死した後、空位となったハンガリー王に立候補した。ラヨシュ2世の姉アンナを妃とするハプスブルク家のフェルディナント大公も立候補し対立した。サポヤイはハンガリー貴族のうちでもリーダーシップがあり、過去20年間政治的な経験があった(また、彼の政敵は多くがモハーチの戦いで戦死していた)。貴族の大多数はサポヤイに付き、わずかな貴族がフェルディナントに付いたにすぎなかった。11月にセーケシュフェヘールヴァールで即位、ヤーノシュ1世と称したが、オスマン帝国スルタン・スレイマン1世の後ろ盾がなければフェルディナントに対抗し得ないと考えたが、それが仇となってヨーロッパ諸国から王として承認されなかった。
1540年、セベシュ(現在のルーマニア・アラド県の都市)で死去した。死後、ハンガリー王国領の大部分が1541年にオスマン帝国領ハンガリーとしてオスマン帝国に臣従する事となる。
1539年、妹バルバラの夫だったポーランド王ジグムント1世と、その再婚相手ボナ・スフォルツァとの間に生まれた娘イザベラと結婚した。翌年には一人息子ヤーノシュ・ジグモンドが生まれたが、サポヤイ自身はその2週間後に死んだ。夫の死後、未亡人となったイザベラは息子を擁してハンガリー王位の獲得に奔走し、1556年から1559年に死ぬまでハンガリー女王を称した。
脚註
参考文献
関連項目
- ハンガリー王国
- 対立王
- サポヤイ家
- ヤーノシュ・ジグモンド - ハンガリー対立王。ヤーノシュ2世とも。
ヤーノシュ1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 14:00 UTC 版)
1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世がオスマン帝国に敗れて戦死し、ヤゲロー朝が断絶した。しかしオスマン軍はハンガリー全土を掌握することなく撤退し、ハンガリー王位をめぐる争いが勃発した。 神聖ローマ皇帝カール5世の弟でオーストリア大公だったフェルディナーンド1世は、ラヨシュ2世の姉アンナ・ヤギエロと結婚していたことからハンガリー王位を請求したが、ほとんどのハンガリー貴族がこれに反発した。選挙王制を採用するハンガリーにおいて、国内最大の大領主でトランシルヴァニアのヴォイヴォダだったサポヤイ・ヤーノシュがハンガリー王に選出されヤーノシュ1世となった。1628年、フェルディナーンド1世は東ハンガリーに侵攻し、ヤーノシュ1世を一旦は追い払った。これに対抗するためヤーノシュ1世はオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を結び、1529年のウィーン包囲に至るオスマン軍のオーストリア遠征を引き起こした。 ヤーノシュ1世はトランシルヴァニアとハンガリー平原東部を確保した。一方フェルディナーンド1世はクロアチア、ハンガリー平原西部、フェルヴィデーク(上ハンガリー)を手中に収めた。 1538年、ナジヴァーラド条約で両勢力の勢力圏が画定された。またヤーノシュ1世に子がいなかったためフェルディナーンド1世がその後継者となることが決められ、将来的に東西ハンガリーはハプスブルク家の元で統一されるはずであった。
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