ヤーノシュ2世とダーヴィドとブランドラタとは? わかりやすく解説

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ヤーノシュ2世とダーヴィドとブランドラタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 15:18 UTC 版)

トルダの勅令」の記事における「ヤーノシュ2世とダーヴィドとブランドラタ」の解説

1559年11月15日摂政イザベラ・ヤギェロンカ死去しヤーノシュ2世親政開始した。彼はカトリック教徒として育てられたが、宗教改革期神学的問題関心寄せていた。1560年1月1661年2月には、メディアシュルター派カルヴァン派の代表による討論会を行わせている。 ルター派宰相チャーキ・ミハーイの説得により、ヤーノシュ2世は2派にそれぞれの主張要約文書提出するよう命じた。この文書神聖ローマ帝国ルター派中心地だったヴィッテンベルクライプツィヒなど4つ都市送られた。1562年前半にこのドイツ四都市の学会から返答送られてくると、東ハンガリールター派同年のうちに宗教会議開き、この返答内容取り入れた間もなくヤーノシュ2世カトリックからルター派改宗した。 ここでコロジュヴァール出身聖職者ダーヴィド・フェレンツ登場し、東ハンガリーにおける新教発展大きな影響与えることになる。彼の経歴から、その並外れた宗教的柔軟性見て取れる1510年ザクセン系の家に生まれたダーヴィドは、ヴィッテンベルクマルティン・ルターフィリップ・メランヒトンから直接宗教改革教えを受け、トランシルヴァニア帰ってから熱心にルター派宗教改革推し進めた1557年ダーヴィドハンガリールター派教会責任者となった。彼はルター派カルヴァン派和解試みたが、聖餐に関する両者の間の溝は埋めたかったダーヴィドは、聖餐の場ではパンにもワインにも奇跡起きないとするカルヴァン派惹かれていった一方で彼はデジデリウス・エラスムスミシェル・セルヴェらの業績研究する中で、教義や自らの信念発展させる批判的思考宗教選択の自由という思想を身に着けた。 エラスムス16世紀前半に、一般人にも聖書を読むように促している。1516年に彼がギリシア語新約聖書出版した際、彼はヨハネの手紙一第五章無視している。この文章三位一体根拠であるとみなされ続けてきた。セルヴェは ヨセフ・キムヒらユダヤ教神学者の反三位一体論読み三位一体論ユダヤ教イスラーム教異なる(欧州キリスト教主要部分であると結論付けた。反三位一体論主張したためセルヴェは故国スペイン追われ1553年ジュネーヴカルヴァン派により火刑処された。 イタリア人のジョルジオ・ブランドラタがトランシルヴァニア宗教改革史に登場するのは、1563年に彼が宮廷医師任じられてからである。セルヴェの影響を受け、ブランドラタは1550年代からイエス・キリスト神性疑問を抱くようになり、ジャン・カルヴァンから「怪物」評された。1556年に己の思想のためにイタリア追われ移り住んだジュネーヴでも居心地悪くなったブランドラタは、1558年ポーランド活動の場移して三位一体派をカルヴァン派から独立させることに成功した折しもハンガリー王ヤーノシュ2世ポーランド亡命生活送っていた頃であり、ここで反三位一体派の思想触れたヤーノシュ2世は、帰国後の1563年にブランドラタを宮廷医師として招いた1564年宗教会議で、ダーヴィド新設されカルヴァン派トランシルヴァニア改革派教会責任者となった。この時、ダーヴィドとすでにヤーノシュ2世お気に入りになっていたブランドラタは初め出会った同年ヤーノシュ2世ルター派からカルヴァン派に再改宗しダーヴィド宮廷説教師任じた。。ダーヴィド人事には、ブランドラタが影響力発揮していた。議会独立したカルヴァン派教会存在認可した1566年議会カルヴァン派牧師スンジェオルジウのゲオルゲ英語版)をルーマニア人教会の長とした。またカルヴァン派改宗しようとしない東方正教聖職者追放命じ布告出したが、これは実行されなかった。 1565年ダーヴィドはブランドラタの影響で反三位一体神学転向したデブレツェンカルヴァン派聖職者ペーテル・メリウス・ユハースはダーヴィド厳しく非難したが、コロジュヴァール有力な市民たちのほとんどはダーヴィド支持者であり続けた。むしろ彼らは、ダーヴィドの説にそぐわない説教禁ずるようになった1566年ヤーノシュ2世宗教的争点明らかにするべく、ジュラフェヘールヴァール(現アルバ・ユリア)で全国民討論会主催したダーヴィド宮廷説教師として反三位一体派を率いて参加したが、この時は結論に至らなかった。 ヤーノシュ2世当初はメリウス・ユハースを支持していたが、宮廷内の三位一体派がヤーノシュ2世に強い働きかけ行ったヤーノシュ2世は、1567年初頭にブランドラタとダーヴィド宗教会議を開くことを黙認した。この宗教会議父なる神単一存在とする反三位一体信条採択したダーヴィド兄弟の舅にあたるヘルタイ・ガーシュパールやカーロイ・ペーテル、その他多くルター派カルヴァン派聖職者コロジュヴァール去ったが、それ以上の数ハンガリー貴族ダーヴィド主張自発的に受け入れた。メリウス・ユハースは自らデブレツェン宗教会議開き三位一体論採択した彼の支持者たちは、ダーヴィド異端の罪で石打ち刑処すべきだ主張した

※この「ヤーノシュ2世とダーヴィドとブランドラタ」の解説は、「トルダの勅令」の解説の一部です。
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