ヤーノシュ2世とダーヴィドとブランドラタ
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「トルダの勅令」の記事における「ヤーノシュ2世とダーヴィドとブランドラタ」の解説
1559年11月15日、摂政イザベラ・ヤギェロンカが死去し、ヤーノシュ2世は親政を開始した。彼はカトリック教徒として育てられたが、宗教改革期の神学的問題に関心を寄せていた。1560年1月と1661年2月には、メディアシュでルター派とカルヴァン派の代表による討論会を行わせている。 ルター派の宰相チャーキ・ミハーイの説得により、ヤーノシュ2世は2派にそれぞれの主張の要約を文書で提出するよう命じた。この文書は神聖ローマ帝国のルター派の中心地だったヴィッテンベルクやライプツィヒなど4つの都市に送られた。1562年前半にこのドイツの四都市の学会から返答が送られてくると、東ハンガリーのルター派は同年のうちに宗教会議を開き、この返答の内容を取り入れた。間もなく、ヤーノシュ2世はカトリックからルター派に改宗した。 ここでコロジュヴァール出身の聖職者ダーヴィド・フェレンツが登場し、東ハンガリーにおける新教の発展に大きな影響を与えることになる。彼の経歴から、その並外れた宗教的柔軟性が見て取れる。1510年にザクセン系の家に生まれたダーヴィドは、ヴィッテンベルクでマルティン・ルターやフィリップ・メランヒトンから直接宗教改革の教えを受け、トランシルヴァニアに帰ってからは熱心にルター派宗教改革を推し進めた。1557年、ダーヴィドはハンガリーのルター派教会の責任者となった。彼はルター派とカルヴァン派の和解を試みたが、聖餐に関する両者の間の溝は埋めがたかった。ダーヴィドは、聖餐の場ではパンにもワインにも奇跡は起きないとするカルヴァン派に惹かれていった。一方で彼はデジデリウス・エラスムスやミシェル・セルヴェらの業績を研究する中で、教義や自らの信念を発展させる批判的思考と宗教選択の自由という思想を身に着けた。 エラスムスは16世紀前半に、一般人にも聖書を読むように促している。1516年に彼がギリシア語新約聖書を出版した際、彼はヨハネの手紙一第五章を無視している。この文章は三位一体の根拠であるとみなされ続けてきた。セルヴェは ヨセフ・キムヒらユダヤ教神学者の反三位一体論を読み、三位一体論がユダヤ教やイスラーム教と異なる(欧州)キリスト教の主要部分であると結論付けた。反三位一体論を主張したためセルヴェは故国スペインを追われ、1553年にジュネーヴでカルヴァン派により火刑に処された。 イタリア人のジョルジオ・ブランドラタがトランシルヴァニアの宗教改革史に登場するのは、1563年に彼が宮廷医師に任じられてからである。セルヴェの影響を受け、ブランドラタは1550年代からイエス・キリストの神性に疑問を抱くようになり、ジャン・カルヴァンから「怪物」と評された。1556年に己の思想のためにイタリアを追われ、移り住んだジュネーヴでも居心地が悪くなったブランドラタは、1558年にポーランドに活動の場を移して反三位一体派をカルヴァン派から独立させることに成功した。折しも東ハンガリー王ヤーノシュ2世がポーランドで亡命生活を送っていた頃であり、ここで反三位一体派の思想に触れたヤーノシュ2世は、帰国後の1563年にブランドラタを宮廷医師として招いた。 1564年の宗教会議で、ダーヴィドは新設されたカルヴァン派のトランシルヴァニア改革派教会の責任者となった。この時、ダーヴィドとすでにヤーノシュ2世のお気に入りになっていたブランドラタは初めて出会った。同年、ヤーノシュ2世はルター派からカルヴァン派に再改宗し、ダーヴィドを宮廷説教師に任じた。。ダーヴィドの人事には、ブランドラタが影響力を発揮していた。議会も独立したカルヴァン派教会の存在を認可した。1566年、議会はカルヴァン派牧師スンジェオルジウのゲオルゲ(英語版)をルーマニア人の教会の長とした。またカルヴァン派に改宗しようとしない東方正教の聖職者の追放を命じる布告も出したが、これは実行されなかった。 1565年、ダーヴィドはブランドラタの影響で反三位一体神学に転向した。デブレツェンのカルヴァン派聖職者ペーテル・メリウス・ユハースはダーヴィドを厳しく非難したが、コロジュヴァールの有力な市民たちのほとんどはダーヴィドの支持者であり続けた。むしろ彼らは、ダーヴィドの説にそぐわない説教を禁ずるようになった。1566年、ヤーノシュ2世は宗教的争点を明らかにするべく、ジュラフェヘールヴァール(現アルバ・ユリア)で全国民の討論会を主催した。ダーヴィドも宮廷説教師として反三位一体派を率いて参加したが、この時は結論に至らなかった。 ヤーノシュ2世は当初はメリウス・ユハースを支持していたが、宮廷内の反三位一体派がヤーノシュ2世に強い働きかけを行った。ヤーノシュ2世は、1567年初頭にブランドラタとダーヴィドが宗教会議を開くことを黙認した。この宗教会議は父なる神を単一の存在とする反三位一体信条を採択した。 ダーヴィドの兄弟の舅にあたるヘルタイ・ガーシュパールやカーロイ・ペーテル、その他多くのルター派・カルヴァン派聖職者がコロジュヴァールを去ったが、それ以上の数のハンガリー貴族はダーヴィドの主張を自発的に受け入れた。メリウス・ユハースは自らデブレツェンで宗教会議を開き、三位一体論を採択した。彼の支持者たちは、ダーヴィドを異端の罪で石打ち刑に処すべきだと主張した。
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