ヤーノシュ2世ジグモンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 14:00 UTC 版)
「東ハンガリー王国」の記事における「ヤーノシュ2世ジグモンド」の解説
1540年、ヤーノシュ1世のもとに息子ヤーノシュ・ジグモンドが生まれた。実にヤーノシュ1世死去のわずか9日前であった。数週間後、サポヤイ家を支持するハンガリー貴族は幼児のヤーノシュ・ジグモンドをヤーノシュ2世としてハンガリー王に即位させ、ここにナジヴァーラド条約は破棄された。ヤーノシュ2世の治世の大部分において、母イザベラ・ヤギェロンカとエステルゴム大司教フラーテル・ジェルジが摂政として国政を握った。彼らはスレイマン1世の保護を求め、スレイマン1世はヤーノシュ2世を自らの属国の王として承認した。 1541年、フェルディナーンド1世はナジヴァーラド条約の履行を強行するため東ハンガリーに侵攻した。フラーテルの要請を受けて駆け付けたオスマン軍はフェルディナーンド1世を撃退したが、そのままブダを占領してブディン州を置いた。これによりハンガリーはハプスブルク領ハンガリー、オスマン領ハンガリー、東ハンガリー王国の3つに分断された。 1540年代において、東ハンガリー王国が版図とした領域は、マラムレシュ、サボルチ、サトマーレ、ソルノク、ビハール、ベーケーシュ、チョングラード、アラド、チャナード、バナトなどが挙げられる。ヴァーラドやリッパなどの大都市が地域の中で卓越した力を持ち、各地のマグナートに対し優位についていた。最も裕福だった大貴族の一人ペーテル・ペトロヴィッチはバナトの絶対的な支配者だったが、サポヤイ家に忠実で、フラーテルの摂政政に協力した。こうした大貴族は地元ではかなりの自治を認められていた。 1540年から1541年にかけての混乱の中でブダの高等法院などの統治機構は消滅し、旧ハンガリー王国中枢部はトランシルヴァニアへの影響力をほぼ失った。旧来のヴォイヴォダによる統治も難しくなっていた。フラーテルは統治機構を作り直し、1542年にジュラフェヘールヴァールに新たな宮廷を置いた。 ヤーノシュ2世の東ハンガリー王国はポーランド王ジグムント1世の支持も受けていた。ジグムント1世はかつてヤーノシュ1世の妹バルバラ・ザーポリャと結婚しており、またヤーノシュ2世の母イザベラはジグムント1世の娘であった。しかし1543年にフェルディナーンド1世の妹エリーザベトがジグムント1世の息子(後のジグムント2世)と結婚したことで、ポーランド王国はハンガリー問題において中立の立場に移った。1543年から1544年にかけてロゲンドルフ率いるハプスブルク軍が東方へ侵攻したが、この遠征はヴァーフ川に沿った王領ハンガリーの交通路を守ることしかできず、オスマン軍に敗れたことでむしろハプスブルク家の影響力を弱める結果に終わった。1544年8月、旧ハンガリー王国中部のティサ川流域の弁務官らがトゥルダにあるトランシルヴァニア政府に参じた。これにより、トランシルヴァニアは中世ハンガリー王国の正統な後継者となった。 ドイツ系住民(トランシルヴァニア・ザクセン人)はハプスブルク家を支持し、東ハンガリー王国への貢献に消極的だった。ほぼ唯一、セベンのマグナートであるペーテル・ハーラルは王国に忠実だった。セーケイ人の中でも、2人の摂政の支持者は少なかった。ヤーノシュ2世の支持者の多くはトランシルヴァニアに血縁や地縁を持っていなかったが、そうした人々の一族が高級官吏や地方役人に多く用いられた。東ハンガリー王国の支配者層はハンガリーの再統一を志しており、フラーテルは常にこの人々の欲求による圧力を受けていた。
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