ハンガリー問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
「ハンガリー評議会共和国」、「ハンガリー・ルーマニア戦争」、および「トリアノン条約」も参照 1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーにはカーロイ・ミハーイを首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアにトランシルヴァニア全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、ハンガリー評議会共和国が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、ヤン・スマッツ南アフリカ国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。
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