ハンガリー国内での対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 03:29 UTC 版)
「ベーラ3世 (ハンガリー王)」の記事における「ハンガリー国内での対立」の解説
ベーラはエステルゴム大司教ルカーチを疎んじるようになり、ベーラの治世の初年にルカーチの待遇は悪化する。従来ハンガリー王室の人間への洗礼の施しはエステルゴム大司教の職務となっていたが、1174年にルカーチに代えてカロチャ大司教がベーラの長子イムレに洗礼を授ける。 ベーラは弟のゲーザを獄中に閉じ込めていたが、1174年から1175年の間にゲーザは脱獄してオーストリアに亡命する。オーストリア公ハインリヒ2世がゲーザの引渡しを拒んだため、ベーラはボヘミア公ソビェスラフ2世と計らってオーストリアの襲撃を計画した。マヌエル1世がアナトリア半島のイスラーム国家ルーム・セルジューク朝に対して遠征を実施した際にベーラはマヌエル1世の元に援軍を派遣するが、1176年9月17日のミュリオケファロンの戦いで東ローマ・ハンガリーの連合軍は敗北を喫する。 ゲーザは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と面会するためにソビェスラフ2世の説得を試みたが、ソビェスラフ2世はゲーザを逮捕し、1177年にゲーザはハンガリー王国に引き渡された。ベーラは再びゲーザを投獄し、彼らの母親であるエフロシニヤもベーラによって幽閉される。フリードリヒ1世はゲーザを逮捕したソビェスラフ2世への報復として彼を廃位し、新たにプシェミスル家の一員であるベドジフ(ハインリヒ)をボヘミア公位に就けた。さらにフリードリヒ1世はボヘミアに攻撃を加えるためにレオポルト5世を新たなオーストリア公に推戴するが、ベーラはレオポルト5世に武力の行使を示唆し、ボヘミアから手を引かせることに成功した。 1176年頃、長らくベーラから重用されていたカロチャ大司教アンドラーシュ(英語版)がベーラを侮辱する事件が起きる。ベーラはすぐさまアンドラーシュと彼の支持者であるセーケシュフェヘールヴァールの司教座聖堂首席司祭の地位を奪い、大司教の財産を押収した。教皇アレクサンデル3世はベーラを教会法に照らして処罰するが、ルカーチと和解したベーラは彼から刑の解除の宣告を受け、アンドラーシュを追放した。両者の衝突は教皇庁の仲介によって終息し、アンドラーシュはベーラに許しを乞う代わりに、ベーラは彼をカロチャ大司教の地位に復職させる。
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