ハンガリー国王への復帰運動
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「カール1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「ハンガリー国王への復帰運動」の解説
詳細は「カール1世の復帰運動」を参照 皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた。 1919年3月21日、共産主義者のクン・ベーラらによって共和国大統領カーロイ・ミハーイ(英語版)の政権が倒された(ハンガリー評議会共和国)。クンらは急進的共産政権を打ち立てようとしたため、多くのハンガリーの資産家や政治家がウィーンを中心とする国外に亡命した。新政権に対してホルティ・ミクローシュなどは反旗を翻し、政権を転覆させた。紆余曲折を経て、ハンガリー国民議会は聖イシュトヴァーンの王冠のもとでの王政復古を決議し、ハンガリーの政体は再び王制となった。 詳細は「ハンガリー王国 (1920年-1946年)」を参照 エッカルツアウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王「カーロイ4世」であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした。ハンガリーでは、「カーロイ4世」の復位を望む者、「カーロイ4世」以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した。 1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官レハール・アンタル(ハンガリー語版)などが駆けつけてきた。馳せ参じたハンガリー首相テレキ・パールは、カールに向かってこう述べた。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。当時の元首摂政ホルティ・ミクローシュは「カーロイ4世」の帰国を当初は歓迎したもののこの動きを警戒した周辺国のチェコスロバキアとユーゴスラビアが動員をかけたため「カーロイ4世」の国外退去か戦争かの二択を迫られることとなった。王党派であったホルティは悩んだすえに国民を守るためハンガリー議会満場一致のもとカールに国外退去を求めることとした。この結果として最初のカール1世の試みは挫折した。 半年後、テレキに代わって首相となったベトレン・イシュトヴァーン(ハンガリー語版)と執政ホルティは、ハンガリーで穏健的独裁統治を行っていた。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。
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