ハンガリー国王への即位
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「ベーラ3世 (ハンガリー王)」の記事における「ハンガリー国王への即位」の解説
1172年3月4日にハンガリーのイシュトヴァーン3世が没する。エステルゴムに滞在していたリューベックのアーノルド(ドイツ語版)はイシュトヴァーン3世がベーラの支持者によって毒殺されたことを示唆する噂を記録しているが、この噂の真偽を検証する資料はアーノルドの記録のほかには存在しない。 ハンガリーの使節団はマヌエル1世、セルディカ(現在のブルガリアのソフィア)のベーラの元を訪れた。キンナモスの記録によれば、彼の兄弟が亡くなった後に「ベーラに正統性がある」ため「ベーラを王として派遣する」ことを求めたという。また、キンナモスはマヌエル1世が自身と東ローマ帝国のために「"promised an oath to observe for the whole course of his life whatever would be beneficial」上でベーラを王としたと伝えている。また、1196年に東ローマ皇帝イサキオス2世によって作成された書簡には、ベーラはセルビアが東ローマを攻撃した場合、彼らに援助を行わないことも約束していたことが記されている。 4月下旬、あるいは5月上旬にベーラ夫妻はセーケシュフェヘールヴァールに到着する。1179年に教皇アレクサンデル3世にむけて書かれた手紙には、ベーラは「ハンガリー王国の要人」によって全会一致で国王に選出されたことが記されている。しかし、エステルゴム大司教ルカーチが戴冠式の実施を拒否したため、ベーラの戴冠式は延期される。ベーラが議会の参加者に高価な衣服を贈っていたため、大司教は王が聖職の売買を行っていると非難した。大司教ルカーチはベーラの治世において「東西教会のシスマ」の影響が増大することを恐れていたと考えられているが、それにも関わらず大多数の封建貴族と高位聖職者はベーラへの忠誠を保ち続けていた。ベーラは大司教ルカーチに対抗するため、聖座に支援を求めた。ベーラの要請に応じて、アレクサンデル3世はカロチャ大司教にベーラを聖別し、「頭上に王冠を置く」ことを認めた。1173年1月18日にベーラの戴冠式が行われた。ベーラはエステルゴム大司教がハンガリー王位の戴冠を行う権利を確認する憲章を発布した。いわゆるギリシャ王冠とラテン王冠が結合して聖イシュトヴァーンの王冠となったのは、彼の治世と考えられている。
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