ハンガリー国民軍
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「ホルティ・ミクローシュ」の記事における「ハンガリー国民軍」の解説
1918年11月16日、ハンガリーはハンガリー民主共和国(第一人民共和制)として独立。しかし北部ハンガリー(スロバキア、カルパティア・ルテニア[要リンク修正])はチェコスロバキアとして独立し、ハンガリー領トランシルヴァニアをルーマニアが併合した。ハンガリーは帝国解体後、大きく領土を喪失、多くの国民が不満を持つ事となる。 1919年3月1日、ハンガリー革命が発生。首都ブダペストで都市・炭坑労働者が蜂起し、指導者クン・ベーラが共産主義政権ハンガリー評議会共和国(ハンガリー・ソビエト共和国とも)を樹立した。しかし評議会(ソビエト)共和国は、大半の保守的なハンガリー国民から支持を得る事は出来なかった。この為、評議会が率先して赤色テロを行い、旧皇帝(国王)派、旧帝国軍人を粛清、保守的知識人、カトリック教会を迫害した。4月16日、ハンガリー国内の混乱に乗じてルーマニアが「赤色革命の飛び火を防ぐ」と言う大義名分でハンガリーへ侵攻(ハンガリー・ルーマニア戦争)。評議会は粛清で弱体化した旧帝国軍に代わり、新たに都市・炭坑労働者を武装化した「ハンガリー人民軍」を創設し、ルーマニア王国軍を迎え撃つ事となった。軍事的経験が皆無な評議会首班クン・ベーラは人民軍がルーマニア王国軍に勝利する事を疑わず、敗戦により併合されたトランシルヴァニア地方の奪還をも楽観視していた。第一次大戦の敗戦によって帝国が瓦解、領土は大きく喪失し、更にルーマニアの侵攻によって、ハンガリーは「亡国の危機」に瀕していた。 ホルティはフィウメで連合国に降伏していた。イタリア海軍へ艦船を引き渡し、帝国艦隊を解散した。しかし、ハンガリーへ帰国する予定がソビエト政権の誕生により大きく狂う事となる。艦隊の解散と、それに伴う艦艇の引き渡しと言う屈辱的な敗戦処理を終えたホルティの元には、評議会の粛清や迫害から逃れて来た軍人、民間人が溢れ、直ちに帰国出来る状態ではなかった。だが、国内の混乱に対して、ホルティは職業軍人として「軍人は政治に介入せず」と言う頑なな姿勢を貫き、フィウメで専ら避難民の保護に努めた。1919年4月、オラデアより出撃したルーマニア王国軍がハンガリー東部へ侵攻。デブレツェンで人民軍が敗北した事を知り、ホルティはハンガリーの防衛を決意。6月、海軍士官・艦隊要員・軍属・陸戦隊・士官候補生を率いてドラーヴァ川を渡り、ハンガリー西部のバルチュでハンガリー国民軍の創立を宣言した。ハンガリー国民軍の決起に呼応して、ハンガリー全土で民兵組織(義勇軍)が蜂起、ホルティの元に旧軍人、民兵(義勇兵)が集まり、ハンガリー国民軍は人民軍を遥かに凌ぐ勢力に拡大した。 8月6日、ルーマニア王国軍がブダペストを占領しクン・ベーラ政権が崩壊。ハンガリー国民軍はルーマニア王国軍とブダペストを挟んで対峙する事となる。ルーマニアはハンガリー東部の領土割譲を要求するが、ホルティはこれを拒否。フランスの軍事支援を取り付け、人民軍に代わり継戦を示唆した。ハンガリー国民軍はハンガリー国民の支持を受け、士気が高く、「明日にはブダペストを!(Holnap elmegyek Budapestre!)」の合言葉の下にブダペスト入城を待ち続けた。対するルーマニアはクン・ベーラ政権が崩壊した事により、大義名分を喪失。進駐の長期化による経済的負担と士気の低下、更にロシア革命に影響されたルーマニア国内の革命勢力の活発化を恐れ、事態の収拾を急ぎ始めた。ホルティはルーマニアとの厳しい和平交渉の末、領土の割譲は拒否。代わりにブダペストに残置された人民軍側の武器弾薬・工場設備・金融資産等を引き渡す条件での撤兵を提案。ルーマニアより、ハンガリー国内からのルーマニア王国軍の撤兵の確約を取り付けた。11月14日、ルーマニア王国軍がブダペスト撤退を開始。代わってホルティ率いるハンガリー国民軍がブダペストへ無血入城し、ホルティはハンガリー全土を掌握した。これらの事態を収拾したホルティの名声は更に高まり、ハンガリー国民の圧倒的多数がホルティを軍事的、政治的な「救国的指導者」として支持した。クン・ベーラ政権に協力した共産主義者の中からも、転向してホルティを支持する者は少なくなかった。尚、赤色テロの反動として一時、愛国者・保守派・旧皇帝派により、クン・ベーラに協力した共産主義者に対する白色テロが横行した(ハンガリー軍による白色テロ(英語版))。 クン・ベーラ政権崩壊後、ハンガリーを掌握したハンガリー国民軍は、旧帝国の皇族であるオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを「我らが王」(Homo Regius)として擁立した。しかし、ハプスブルク帝国の復活を怖れる協商国陣営とルーマニアが再宣戦を含め強硬に反対。10月23日、ヨーゼフ・アウグスト大公は暫定的な王位から退位した。退位後、極めて短期間、「共和国議会」よりフリードリッヒ・イシュトヴァーン、次いでフサール・カーロイが「共和国大統領」として選出され、ハンガリーを統治した。 第一次大戦の敗戦、帝国の解体、及び領土の喪失が我慢ならない国内の反動主義者、愛国者達は、聖イシュトヴァーンの王冠の地の栄光を取り戻す社会運動を開始。中世、中欧に栄えたハンガリー王国に倣い、王国の復興を標榜した、所謂「ハンガリーの誇り」を保守的な新聞を通じてハンガリー国民に盛んに宣伝した。この愛国運動が全国民的な社会変革運動へ発展し、国内世論の大多数が共和制から国王を擁した立憲君主主義体制を求める様になった。ヨーゼフ・アウグスト大公が暫定的な王位を退位して僅か数ヵ月後、1920年2月、王政復古を問う国民投票が行われ、共和制から立憲王制への移行が決定された。
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