ハンガリー国民軍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ハンガリー国民軍の意味・解説 

ハンガリー国民軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:03 UTC 版)

ホルティ・ミクローシュ」の記事における「ハンガリー国民軍」の解説

1918年11月16日ハンガリーハンガリー民主共和国第一人民共和制)として独立。しかし北部ハンガリースロバキアカルパティア・ルテニア[要リンク修正])はチェコスロバキアとして独立しハンガリートランシルヴァニアルーマニア併合したハンガリー帝国解体後大きく領土喪失多く国民が不満を持つ事となる。 1919年3月1日ハンガリー革命発生首都ブダペスト都市炭坑労働者蜂起し指導者クン・ベーラ共産主義政権ハンガリー評議会共和国ハンガリー・ソビエト共和国とも)を樹立した。しかし評議会ソビエト共和国は、大半保守的なハンガリー国民から支持を得る事は出来なかった。この為評議会率先して赤色テロ行い、旧皇帝国王)派、旧帝国軍人を粛清保守的知識人カトリック教会迫害した4月16日ハンガリー国内混乱乗じてルーマニアが「赤色革命飛び火を防ぐ」と言う大義名分ハンガリー侵攻ハンガリー・ルーマニア戦争)。評議会粛清弱体化した旧帝国軍代わり新たに都市炭坑労働者武装化した「ハンガリー人民軍」を創設しルーマニア王国軍を迎え撃つ事となった。軍事的経験皆無評議会首班クン・ベーラ人民軍ルーマニア王国軍に勝利する事を疑わず敗戦により併合されトランシルヴァニア地方奪還をも楽観視していた。第一次大戦敗戦によって帝国瓦解領土大きく喪失し、更にルーマニア侵攻によって、ハンガリーは「亡国危機」に瀕していた。 ホルティフィウメ連合国降伏していた。イタリア海軍艦船引き渡し帝国艦隊解散した。しかし、ハンガリー帰国する予定ソビエト政権誕生により大きく狂う事となる。艦隊解散と、それに伴う艦艇引き渡しと言う屈辱的な敗戦処理を終えたホルティ元には、評議会粛清迫害から逃れて来た軍人民間人溢れ直ち帰国出来る状態ではなかった。だが、国内混乱に対してホルティ職業軍人として「軍人政治介入せず」と言う頑なな姿勢貫きフィウメ専ら避難民保護努めた1919年4月オラデアより出撃したルーマニア王国軍がハンガリー東部侵攻デブレツェン人民軍敗北した事を知りホルティハンガリー防衛決意6月海軍士官艦隊要員軍属陸戦隊士官候補生率いてドラーヴァ川渡りハンガリー西部のバルチュでハンガリー国民軍の創立宣言した。ハンガリー国民軍の決起呼応してハンガリー全土民兵組織義勇軍)が蜂起ホルティ元に旧軍人、民兵義勇兵)が集まり、ハンガリー国民軍は人民軍遥かに凌ぐ勢力拡大した8月6日ルーマニア王国軍がブダペスト占領しクン・ベーラ政権崩壊。ハンガリー国民軍はルーマニア王国軍とブダペスト挟んで対峙する事となる。ルーマニアハンガリー東部領土割譲要求するが、ホルティはこれを拒否フランスの軍事支援取り付け人民軍代わり継戦示唆した。ハンガリー国民軍はハンガリー国民の支持を受け、士気高く、「明日にはブダペストを!(Holnap elmegyek Budapestre!)」の合言葉の下にブダペスト入城待ち続けた対すルーマニアクン・ベーラ政権崩壊した事により、大義名分喪失進駐長期化による経済的負担士気低下、更にロシア革命影響されルーマニア国内の革命勢力活発化恐れ事態の収拾急ぎ始めたホルティルーマニアとの厳し和平交渉の末、領土割譲拒否代わりにブダペスト残置された人民軍側の武器弾薬工場設備金融資産等を引き渡す条件での撤兵提案ルーマニアより、ハンガリー国内からのルーマニア王国軍の撤兵確約取り付けた11月14日ルーマニア王国軍がブダペスト撤退開始。代わってホルティ率いるハンガリー国民軍がブダペスト無血入城しホルティハンガリー全土掌握した。これらの事態収拾したホルティ名声は更に高まりハンガリー国民の圧倒的多数ホルティ軍事的政治的な救国指導者」として支持したクン・ベーラ政権協力した共産主義者の中からも、転向してホルティ支持する者は少なくなかった。尚、赤色テロ反動として一時愛国者保守派・旧皇帝派により、クン・ベーラ協力した共産主義者対す白色テロ横行したハンガリー軍による白色テロ英語版))。 クン・ベーラ政権崩壊後ハンガリー掌握したハンガリー国民軍は、旧帝国の皇族であるオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを「我らが王」(Homo Regius)として擁立した。しかし、ハプスブルク帝国復活怖れる協商国陣営ルーマニアが再宣戦含め強硬に反対10月23日、ヨーゼフ・アウグスト大公暫定的な王位から退位した退位後極めて短期間、「共和国議会」よりフリードリッヒ・イシュトヴァーン、次いでフサール・カーロイが「共和国大統領」として選出されハンガリー統治した第一次大戦敗戦帝国の解体、及び領土喪失我慢ならない国内反動主義者、愛国者達は、聖イシュトヴァーンの王冠の地栄光取り戻す社会運動開始中世中欧栄えたハンガリー王国倣い王国復興標榜した、所謂ハンガリー誇り」を保守的な新聞通じてハンガリー国民に盛んに宣伝した。この愛国運動全国民的な社会変革運動発展し国内世論大多数共和制から国王擁した立憲君主主義体制求め様になった。ヨーゼフ・アウグスト大公暫定的な王位退位して僅か数ヵ月後、1920年2月王政復古を問う国民投票が行われ、共和制から立憲王制への移行決定された。

※この「ハンガリー国民軍」の解説は、「ホルティ・ミクローシュ」の解説の一部です。
「ハンガリー国民軍」を含む「ホルティ・ミクローシュ」の記事については、「ホルティ・ミクローシュ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ハンガリー国民軍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハンガリー国民軍」の関連用語

ハンガリー国民軍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハンガリー国民軍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのホルティ・ミクローシュ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS