ハンガリー王国執政とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ハンガリー王国執政の意味・解説 

ハンガリー王国執政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:03 UTC 版)

ホルティ・ミクローシュ」の記事における「ハンガリー王国執政」の解説

1920年3月1日、「共和国議会」より改称したハンガリー国議会」は、第一次世界大戦敗戦により事実上瓦解していた(チェック人スロバキア人始めとする各民族の「民族自決」による独立オーストリア=ハンガリー帝国再統合し、帝国再建すべく、その第一歩としてハンガリー王国成立宣言した(元々ハンガリー人帝国中核をなす民族としての自負高く事実ハンガリー人貴族の方がドイツ人貴族より多かった)。しかし、ハプスブルク家国王推戴戦勝国側である協商国断固否定されハンガリー国王不在余儀なくされた。この状況打開すべく、国民議会事実上元首として、ホルティを「ハンガリー王国執政」に選出国民議会定数138票中、賛成131獲得、5票欠席、2票途中退席)。この選出表向き協商国対す安全保障、つまりオーストリア追われハプスブルク=ロートリンゲン家皇帝カール1世カーロイ4世)を、ハンガリー王国国王復位させない事を条件とした選出であったが、実際にカール1世戴いてオーストリア=ハンガリー帝国再興目指す皇帝派と、ハンガリー王国として喪失した領土回復目論む民族主義者との妥協産物と言えるものであったハンガリー共和制から立憲王政移行する間、ホルティ革命によって疲弊した国内視察し大戦内戦を共に戦った軍人達慰労して廻った。相変わらず政治に無関心であったが、視察中、国民議会自分摂政指名すると言う新聞記事読み新聞社直接確認している。1920年3月国民議会ホルティ摂政選出。しかし、これに激怒したホルティ国民議会への参加拒否。「私は一介軍人に過ぎない大公殿下ハンガリー国民に忠誠は誓うが、政治門外漢だ」と固辞していたが、ヨーゼフ・アウグスト大公直々にホルティの元を訪れ摂政への就任要請ホルティ摂政就任受諾せざるを得ない状況追い込まれた。ホルティは、国王不在のまま摂政として長い大戦とそれに続く混乱内戦疲弊した国内経済立て直し着手国民議会政党区別なく全面的にホルティ政策支持し議会制に基づく緩やかな独裁体制確立した1920年6月20日トリアノン条約成立ハンガリー領土著しく削減された。北部ハンガリートランシルヴァニア等、ハンガリー伝統的な国土大半正式に失ったこの為ハンガリー国内には不満が鬱積し右派愛国者中心に失地回復運動隆盛する事となる。 1921年3月26日ホルティ休暇中にカール1世ハンガリー帰国しハンガリー王カーロイ4世としての即位要求したホルティ当初これを受け入れようとしたが、帝国復活目論オーストリアへの侵攻画策するカール1世を、協商国との係争化を懸念した国民議会拒絶3月27日ホルティ自身ハプスブルク家への忠誠誓っていたが、オーストリアへの侵攻国力的にも国際的にも無理である事を承知しており、オーストリア諦めるならカール1世国王として国民議会推挙する用意がある事をカール1世伝え、この返答に約一ヶ月猶予与えた3月28日ハプスブルク家復活嫌った周辺諸国反発チェコスロバキアユーゴスラビア王国が「カール即位開戦理由となる」と警告国民議会も「摂政たるホルティによる国内統治継続」と「カール1世逮捕」を求め決議満場一致可決ホルティハプスブルク家カール1世)と国民議会ハンガリー国民)との板挟みとなったが、カール1世オーストリア侵攻計画の件もあり、ホルティ最終的に国民議会従った3月危機)。 6月ハプスブルク家忠誠を誓う「正統主義者」が王党派皇帝派と共にホルティ対しカール1世即位要求しホルティ政権言論攻撃親王党派ホルティ国民議会カール1世即位働き掛けるが、国民議会はこれを拒絶正統主義者、王党派ホルティの間で幾つかの会合持たれたが、最終的に決裂した10月21日カール1世正統主義者、王党派皇帝派)に擁されハンガリー入国カール1世支持する一部ハンガリー王国軍が合流し内戦危機陥るハンガリー国民軍発展的に改編されたハンガリー王国軍は概ねホルティ忠誠誓っており、ホルティ自身カール1世権力移譲摂政退任希望していたが、近隣国との摩擦、特にオーストリア巻き込んだ即位時期尚早との見解だった。この間チェコスロバキアユーゴスラビア王国実力をもってカール1世即位阻止すべく、国境へ軍を集結させた。 10月24日事態収拾すべく、ホルティは止む無くカール1世夫妻逮捕カール1世内戦意図しておらず、ホルティ決断従った10月29日カール1世逮捕しても尚、チェコスロバキアユーゴスラビア王国国境付近から撤兵せず、チェコスロバキア外相エドヴァルド・ベネシュは「将来渡りハプスブルク家の完全なる廃位確約されなければハンガリー侵攻する」と最後通牒行ったホルティはこれに激怒しハンガリー王国軍の動員計画したが、イギリス大使ホーラーによって制止された。11月国民議会1713年国事勅書無効とする法案可決カール1世王位継承権明白に否定した事で、ホルティ自身皮肉にもハプスブルク家による立憲王政への回帰諦めざるを得ない状況となったカール1世の復帰運動)。 摂政としてホルティは、伝統的な立憲君主及ばない程度権限持っていた。ホルティは、侍従武官時代身に付け厳格な気品海軍時代時間的厳密さ内外老若男女問わず社交的且つ紳士的に振る舞い多く人々魅了した。特にアメリカの駐ハンガリー公使ジョン・フローノイ・モンゴメリー(英語版)はホルティ惚れ込み終生その熱心な信奉者となった。但し、ホルティは誠実且つ愚直な軍人故に物事直言する事が多く政府ホルティ外国人、特に外国新聞記者頻繁に接触する事を制限していた。

※この「ハンガリー王国執政」の解説は、「ホルティ・ミクローシュ」の解説の一部です。
「ハンガリー王国執政」を含む「ホルティ・ミクローシュ」の記事については、「ホルティ・ミクローシュ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ハンガリー王国執政」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハンガリー王国執政」の関連用語

ハンガリー王国執政のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハンガリー王国執政のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのホルティ・ミクローシュ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS