ハンガリー王国執政
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「ホルティ・ミクローシュ」の記事における「ハンガリー王国執政」の解説
1920年3月1日、「共和国議会」より改称した「ハンガリー国民議会」は、第一次世界大戦の敗戦により事実上瓦解していた(チェック人・スロバキア人を始めとする各民族の「民族自決」による独立)オーストリア=ハンガリー帝国を再統合し、帝国を再建すべく、その第一歩としてハンガリー王国の成立を宣言した(元々ハンガリー人は帝国の中核をなす民族としての自負が高く、事実ハンガリー人貴族の方がドイツ人貴族より多かった)。しかし、ハプスブルク家の国王推戴は戦勝国側である協商国に断固否定され、ハンガリーは国王不在を余儀なくされた。この状況を打開すべく、国民議会は事実上の元首として、ホルティを「ハンガリー王国執政」に選出(国民議会定数138票中、賛成131票獲得、5票欠席、2票途中退席)。この選出は表向き協商国に対する安全保障、つまりオーストリアを追われたハプスブルク=ロートリンゲン家の皇帝カール1世(カーロイ4世)を、ハンガリー王国国王に復位させない事を条件とした選出であったが、実際にはカール1世を戴いてオーストリア=ハンガリー帝国の再興を目指す皇帝派と、ハンガリー王国として喪失した領土の回復を目論む民族主義者との妥協の産物と言えるものであった。 ハンガリーが共和制から立憲王政に移行する間、ホルティは革命によって疲弊した国内を視察し、大戦・内戦を共に戦った軍人達を慰労して廻った。相変わらず政治に無関心であったが、視察中、国民議会が自分を摂政に指名すると言う新聞記事を読み、新聞社へ直接確認している。1920年3月、国民議会がホルティを摂政に選出。しかし、これに激怒したホルティは国民議会への参加を拒否。「私は一介の軍人に過ぎない。大公殿下とハンガリー国民に忠誠は誓うが、政治は門外漢だ」と固辞していたが、ヨーゼフ・アウグスト大公直々にホルティの元を訪れ、摂政への就任を要請。ホルティは摂政就任を受諾せざるを得ない状況へ追い込まれた。ホルティは、国王不在のまま摂政として、長い大戦とそれに続く混乱・内戦で疲弊した国内経済の立て直しに着手。国民議会は政党の区別なく全面的にホルティの政策を支持し、議会制に基づく緩やかな独裁体制が確立した。 1920年6月20日にトリアノン条約が成立、ハンガリーの領土は著しく削減された。北部ハンガリー、トランシルヴァニア等、ハンガリーは伝統的な国土の大半を正式に失った。この為ハンガリー国内には不満が鬱積し、右派・愛国者を中心に失地回復運動が隆盛する事となる。 1921年3月26日、ホルティの休暇中にカール1世がハンガリーに帰国し、ハンガリー王カーロイ4世としての即位を要求した。ホルティは当初これを受け入れようとしたが、帝国の復活を目論みオーストリアへの侵攻を画策するカール1世を、協商国との係争化を懸念した国民議会が拒絶。3月27日、ホルティ自身はハプスブルク家への忠誠を誓っていたが、オーストリアへの侵攻は国力的にも国際的にも無理である事を承知しており、オーストリアを諦めるならカール1世を国王として国民議会へ推挙する用意がある事をカール1世へ伝え、この返答に約一ヶ月の猶予を与えた。 3月28日、ハプスブルク家の復活を嫌った周辺諸国が反発。チェコスロバキアとユーゴスラビア王国が「カールの即位は開戦理由となる」と警告。国民議会も「摂政たるホルティによる国内統治の継続」と「カール1世の逮捕」を求める決議を満場一致で可決。ホルティはハプスブルク家(カール1世)と国民議会(ハンガリー国民)との板挟みとなったが、カール1世のオーストリア侵攻計画の件もあり、ホルティは最終的に国民議会に従った(3月危機)。 6月、ハプスブルク家に忠誠を誓う「正統主義者」が王党派(皇帝派)と共に、ホルティに対しカール1世の即位を要求しホルティの政権を言論で攻撃。親王党派のホルティは国民議会にカール1世の即位を働き掛けるが、国民議会はこれを拒絶。正統主義者、王党派とホルティの間で幾つかの会合が持たれたが、最終的に決裂した。 10月21日、カール1世が正統主義者、王党派(皇帝派)に擁されハンガリーへ入国。カール1世を支持する一部のハンガリー王国軍が合流し、内戦の危機に陥る。ハンガリー国民軍が発展的に改編されたハンガリー王国軍は概ねホルティに忠誠を誓っており、ホルティ自身はカール1世へ権力の移譲と摂政の退任を希望していたが、近隣国との摩擦、特にオーストリアを巻き込んだ即位は時期尚早との見解だった。この間、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国は実力をもってカール1世の即位を阻止すべく、国境へ軍を集結させた。 10月24日、事態を収拾すべく、ホルティは止む無くカール1世夫妻を逮捕、カール1世も内戦は意図しておらず、ホルティの決断に従った。 10月29日、カール1世を逮捕しても尚、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国は国境付近から撤兵せず、チェコスロバキア外相エドヴァルド・ベネシュは「将来に渡りハプスブルク家の完全なる廃位が確約されなければハンガリーへ侵攻する」と最後通牒を行った。ホルティはこれに激怒し、ハンガリー王国軍の動員を計画したが、イギリス大使ホーラーによって制止された。11月、国民議会が1713年の国事勅書を無効とする法案を可決。カール1世の王位継承権を明白に否定した事で、ホルティ自身、皮肉にもハプスブルク家による立憲王政への回帰を諦めざるを得ない状況となった(カール1世の復帰運動)。 摂政としてのホルティは、伝統的な立憲君主に及ばない程度の権限を持っていた。ホルティは、侍従武官時代に身に付けた厳格な気品、海軍時代の時間的厳密さ、内外・老若男女問わず社交的且つ紳士的に振る舞い、多くの人々を魅了した。特にアメリカの駐ハンガリー公使ジョン・フローノイ・モンゴメリー(英語版)はホルティに惚れ込み、終生その熱心な信奉者となった。但し、ホルティは誠実且つ愚直な軍人故に物事を直言する事が多く、政府はホルティが外国人、特に外国の新聞記者と頻繁に接触する事を制限していた。
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