ハンガリー王即位、戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 16:23 UTC 版)
「ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)」の記事における「ハンガリー王即位、戦死」の解説
1440年、ヴワディスワフ3世はハンガリー国王に推されたが、これを受けるのには多くの問題があった。まず、ハンガリーは当時オスマン帝国の脅威にさらされており、ハンガリーとの同君連合にはポーランド貴族たちの反発が予想された。さらに、先代の王であるハプスブルク家のローマ王アルブレヒト2世の未亡人エリーザベトは妊娠しており、生まれてくる子に将来のハンガリー王位を継がせようと考えていた。 こうした困難にもかかわらず、ヴワディスワフ3世はハンガリー王位を受けることを決め、エリーザベト支持派との2年にわたる内戦を勝ち抜いた。ヴワディスワフ3世は教皇エウゲニウス4世からの多大な援助を受け、その恩返しとしてトルコ人に対する十字軍を組織すると誓った。18歳の国王はポーランドの問題などを完全に気にかけないまま、十字軍への情熱を燃やしていたという。 「キリスト教世界の擁護者」を始めとする様々な称号が、十字軍の戦勝を約束する祝福と共に、教皇特使ジュリアーノ・チェザリーニによってヴワディスワフ3世の許へともたらされた。ただし、ローマからの使節はヴワディスワフに以後2年にわたるオスマン帝国への十字軍続行を約束させる目的があった。オラデアにおいて1443年に結ばれた10年の休戦条約については、異教徒は信用できないので戦いを続行すべきだというローマ教会の主張を国王は受け入れた。 オスマン帝国側には圧倒的な軍事的優位があったが、ヴワディスワフ3世はオスマン帝国がヨーロッパ全土に及ぼしうる力を持っていることを認識できなかった。それゆえ、1444年11月10日のヴァルナの戦いで従軍していたフニャディ・ヤーノシュの制止を振り切って帝国軍の中央へ突撃、スルタン直属の親衛隊イェニチェリの反撃を受けて戦死した。同じく従軍していたチェザリーニもこの戦いで戦死した。 ヴワディスワフ3世は未婚であり、子供も無いまま死去した(ヤン・ドゥウゴシュの年代記の記述から、現代では同性愛者だったのではないかとする説まである)。ハンガリー王位はかつてのライバルであったエリーザベトの遺児ラディスラウス・ポストゥムスが幼くして継承し、ポーランド王位は3年の空位期間を経て弟のカジミェシュ4世が継承した。後にカジミェシュ4世の孫の一人でハンガリー王位を継いだラヨシュ2世が、1526年にモハーチの戦いでヴワディスワフ3世と同じ運命をたどることとなった。
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