3月危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:21 UTC 版)
「カーロイ4世の復帰運動」の記事における「3月危機」の解説
カールの復位の試みは、フランスの密かな支援のもとに行われた。フランス首相アリスティード・ブリアンはカールが政権を握ることに成功した際には彼の政府を承認し、支援すると約束した。カールの辞退によって実現しなかったが、ブリアン首相はカールにフランス軍を自由に使うことさえ勧めた。フランスは公式には王政復古に反対の立場を取っていたが、カールの復位に向けた動きの裏にはフランスの支援があったことが今日明らかとなっている。 1921年3月26日、ホルティが休暇に出ている隙を狙ってカールはハンガリーのソンバトヘイに入った。カールは国民軍の実力者レハール・アンタル(Lehár Antal)など複数の政府高官の支持を受けていた。27日には王宮に入り、ホルティに対してオーストリアへの進撃を要求した。しかしすでに内戦で疲弊したハンガリーにその力は無いと判断していたホルティは要求を拒否した。両者の間での話し合いはつかず、3週間の猶予だけが決定された。ホルティはこの猶予期間中に「カールがウィーンに進撃するか、スイスに戻るか」と判断していたが、カールは「オーストリア進撃に関係なく、ホルティが自分の復位に動く」と予想していた。 レハール・アンタル(左)とベトレン・イシュトヴァーン(右) しかし、ハプスブルク家の復活を嫌った周辺諸国は反発し、3月28日にチェコスロバキアとユーゴスラビアの使節は「カールの復位は両国との開戦理由になる」と警告した。一方、ハンガリー議会でもホルティ支持とカールの逮捕を求める決議が満場一致で可決された。すべての取引は公的に拒否され、カールは4月6日にスイスに戻らざるを得なかった。 カールは復位を諦めず、列強やハンガリー国民が復位を支持すると考えていた。しかしハンガリー国民の大半は冷淡であり、この間に支持する動きを見せなかった。この騒動で疲れ切ったテレキ・パール(hu:Teleki Pál)首相は4月14日に辞職し、ベトレン・イシュトヴァーン(hu:Bethlen István)が首相に就任した。ベトレンは今後10年にわたって首相を務めることになる。
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