3月の裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:08 UTC 版)
「ジョン・ウィールライト」の記事における「3月の裁判」の解説
その後の2か月間、他の牧師達が、ウィールライトの断食の日の説教だけでなく、マウントウォラストンでの説教も取り上げて幾つか教義的非難を行った。植民地議会が3月9日に開会されたとき、ウィールライトは断食の日の説教について査問されるために呼ばれた。当時議会には12人の判事と33人の代議員がおり、判事の中ではヘンリー・ベイン、ウィリアム・コディントン、リチャード・ダマーがウィールライトの強い支持者だった。他の判事の中で、ジョン・ハンフリー、サイモン・ブラッドストリート、リチャード・ベリンガム、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアの4人は、仲間の判事と比較してその宗教的寛容さで知られていた。ウィールライトに対する件を指導したのは代議員であり、その告発内容は「断食の日に異端で扇動的な説教を行ったこと、反抗と騒動を煽っていること」だった。他にも告発や反論があった後、ウィールライトは断食の日の説教の原稿を議会に提出し、その日は解放された。その出発に続いて、支持者達が議会に、教会が査問する前に良心に関する問題を議会で審査する権限についての異議申し立てをして、40人以上の署名による請願書を提出した。その請願書は拒絶された。 翌朝、ウィールライトは議会で個人的な審査の時を与えられ、ウィールライトは誰が告発者であるかを尋ねた。議会の回答はウィールライトの説教が告発者であるとのことだった。その日の午後、議会は一般に公開され、植民地の牧師全員が出席した。ウィールライトに対して行われた攻撃手の1つは、ウィールライトの教義、コットンの教義をニューイングランドの他の全ての牧師の教義と異なる故に「偽りの教義」とするものだった。これに対するコットンの怒りの反応は、「ウィールライト兄弟の教義は神に従っている」であり、ウィールライトに付いてい行くことで神について行っていることを知らしめ、それで攻撃の手を実質的に止めさせた。その後も幾つか告発が無効になった後、議会は植民地の牧師達に、ウィールライトの説教で彼らが攻撃されたと感じたかを問うというアイディアを思いついた。その夜、牧師達は自分たちでこの件を議論した後、翌朝に議会に戻って来た。コットンは異議を唱えたが、他の牧師達は、彼らが実際に「歩き入り」ウィールライトが行いの契約と呼ぶものを教え、それ故に彼らは説教の中で仄めかされた反キリスト教であると語った。 牧師達は彼らの信用のために、ウィールライトに逆境から優雅に戻る手段を提出し、このことがウィンスロップに大きな印象を与えた。ウィンスロップは彼らの「人間性と尊厳」に注目した。しかしウィールライトは妥協せず、如何なる和解にも興味を示さなかったので、議会はその審議を続けた。コディントンは後に「聖職者達は判事のうち2人を自分たちの側に付け、多数の支持を得ることになった」と記した。その後代議員達がその票を投じ、ウィールライトは「植民地の中で故意に苦痛を起こし増加させるために動いた」ことで「不服従と扇動」の罪で有罪と宣告された。判決は次の議会まで延期されたが、議論は政治的問題となった。 ウィールライトの有罪判決は闘争無しに通過はせず、その友人たちが正式に抗議した。判決に同意しなかったベイン総督や判事と代議員の幾人かは、その不満意見を裁判の記録に入れることを望んだが、議会は拒否した。その後彼らは抗議書を提出したが、これも拒絶された。このことで、ウィリアム・アスピンウォールが起草した抗議書が準備されたが、最初の案が大変好戦的だったので、その言葉遣いを和らげるための修正が行われる必要があった。その最後の版でも慇懃なものからは大きく逸れていたので、議会は「神の予言に対して干渉する」ので神の報復を招くと言った。しかし、ウィールライトの有罪に対する不満が大きかったので、60人以上がそれに署名した。それに署名した者はほとんど重要な者ではなかった。その大半は自由人であり、多数が事務所を構え、植民地の裕福な住人であり、植民地に3年間以上住んでいた。この請願書は後に署名者に降りかかる重い罰の口実にされた。
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