神について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「神について」の解説
1921年、講義「アウグスティヌスと新プラトン主義」ではアウグスティヌスの『告白』10巻の解釈において、アウグスティヌスは「それにおいて魂が身体に固着し、また自らの質量を動かすところに力(kraft)を見出す」が、そこに神を見出さないが、これは「もはや、これやそれが神であるのかどうかではなくて、私は<そのうちで>=<それでもって>=<そのなかで生きつつ>神を見出すのかどうかが問われている」として、神を対象化することが断念されていると論じられ、アウグスティヌスが「私の記憶」へ、さらにそれを越えて「内なる超越」を行っていくという方向性は、ハイデッガーの「存在と時間」や、「ヒューマニズム書簡」での「脱自的に開けた明るみの中へと立つこと」「存在の近さのうちに脱自的に住むこと」をEksistenzとしていることと重なるものであると上田圭委子は論じている。 一方、1921/22年講義「アリストテレスについての現象学的解釈」では「たとえ私が哲学者としてありつつ、宗教的な人間でもありうるとしても、哲学することにおいては宗教的にふるまうことはない。」「哲学はその根底的で自立した問いかけの態度においては、原理的に非神論的(a-theistisch)でなければならない」と語られた。後にヘルダーリンの読解においては、「神的なるものたち(die Göttlichen)」が語られた。 ハイデッガーが教会で聖水をうけて片膝をついて祈る姿をみたマックス・ミューラーが、教会のドグマから距離をとっているのに矛盾していないかと問うと、「ものは歴史的に考えねばならない。そんなにも多くのお祈りがなされた場所には、神々しいものがまったく特別な仕方で近くにいる」とハイデッガーは答えた。
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