3月の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 10:20 UTC 版)
「2011年イエメン騒乱」の記事における「3月の動き」の解説
3月1日からデモが拡大。アデンとの連帯を示すためという。北部アムランでデモ隊に軍が発砲、2人が死亡。北部セムラでもデモ隊に軍が発砲、4人が死亡し、7人が負傷。また首都サナアで数万人規模のデモが発生した。18日にはサナア大学の校内にいるデモ隊と武装した政府支持者が衝突。これに対して、建物の屋上や家内から治安部隊の狙撃手が実弾を用いてデモ隊に発砲。52人が死亡、100人以上が負傷した。犠牲者はデモ発生以来最大規模となった。多くが頭部や首を撃たれていたという。この事態を受けて、サーレハ大統領は全土に非常事態を宣言した。 3月19日にはサーレハの出身部族であるハーシド部族連合のサーディク・アル=アフマル族長が大統領の退陣を求める声明を発表し、反政府デモ隊を正式に支持した。また、人権相や観光相、国連大使、シリア、エジプト、サウジアラビア、レバノン、中国の各国駐在大使、アデン県知事、国民全体会議幹部も18日の事態に抗議して20日に辞任した。また、イエメン軍内部でも大将2人や将校60人、内務省職員50人がデモへの支持を表明。サーレハの異母弟であるアリー・ムフスィン・アル=アフマル陸軍第1装甲師団長がデモ隊を支持するとの声明をアルジャジーラで発表した。一方、アリー国防相は「軍は大統領を支持している」と語り、大統領宮殿や政府関連施設にサーレハの長男アフマドが司令官を務める共和国防衛隊が配備された。
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