ハンガリー動乱と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 21:54 UTC 版)
「ケレティ・アーグネシュ」の記事における「ハンガリー動乱と亡命」の解説
メルボルン五輪の開催中にハンガリーの民衆が全土で蜂起した事件をめぐりソビエト連邦軍がハンガリーに侵攻するという事態が起きた(ハンガリー動乱)。五輪に参加していたハンガリー代表団は祖国の惨状を知り、ケレティを含む44人のハンガリー代表選手らは祖国へは戻らずオーストラリアに残り、亡命することを決断した。オーストラリア当局はこの亡命を受け入れて、亡命者を保護した。幸い、ケレティは母と妹をハンガリーからオーストラリアへ呼び寄せることができた。翌1957年、ケレティはイスラエルのスポーツ関係者から招待を受けて、テルアビブで開催された第5回マカビア競技大会に参加した。イスラエルを訪れるのは初めてだったが、同国を気に入った彼女は移住することを決め、続いて母と妹も間もなくイスラエルに居を移した。シャールカーニとは既に1950年に離婚しており、イスラエルで知り合ったハンガリー人体育教師ビロ・ロベルトと1959年に再婚してダニエル、ラファエルと2人の息子を儲けた。1958年に競技生活から引退した後はテルアビブ大学およびネタニヤのウィンゲート体育研究院で長年にわたり体育のインストラクターを務め、同時に体操競技のイスラエル代表チームでも1990年代に至るまでコーチを務めた。 1936年ベルリン五輪水球競技の金メダリストで1913年生まれのタリッチ・シャーンドルが2016年5月21日に死去したことにともない、ケレティはハンガリーで最高齢の五輪金メダリストになった。2017年2月にはイスラエル最高の栄誉であるイスラエル賞を同国から授与された。 2017年2月現在は、イスラエルのヘルツリーヤに居住している。
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