チェコスロバキアとハンガリーの領土問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:36 UTC 版)
「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の記事における「チェコスロバキアとハンガリーの領土問題」の解説
1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦に敗北し、領域内からチェコスロバキアが独立した。しかし同時期に独立したハンガリー民主共和国とスロバキア・カルパティア・ルテニアの領有をめぐって争いがあった。 スロバキアとカルパティア・ルテニアは北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリー王国の歴史的地域であった。一方でチェコスロバキア大統領トマーシュ・マサリクはスロバキアの連邦参加を求めていた。さらにルーマニア王国もハンガリー領トランシルヴァニアの領有を狙っていた(大ルーマニア)。両国はハンガリーとの国境地帯に軍を配置し、ハンガリー政府に圧力をかけた。 1919年3月、ハンガリーではクン・ベーラの率いるハンガリー・ソビエト共和国が成立した。クン・ベーラの共産主義政権は民衆の支持を得られず、ハンガリーは混乱した。これを好機と見て、4月にはルーマニアがハンガリーに侵攻した(ハンガリー・ルーマニア戦争)。いっぽう、6月には海軍大将ホルティ・ミクローシュが蜂起し、南部にハンガリー政府を建設した。8月にはルーマニア軍によってハンガリーの首都ブダペストが占領され、ハンガリー・ソビエト共和国は倒れ、クン・ベーラは国外に逃亡した。ホルティの政府が後継のハンガリー政府となったが、ルーマニア軍は撤兵に応じなかった。11月、ルーマニア軍はトランシルヴァニアの割譲を条件として撤兵した。 連合国はハンガリー問題を解決するため、1920年トリアノン条約による領域確定を行った。これは第一次世界大戦の講和条約でもあり、動乱の続いたハンガリーはこれを受け入れるほかなかった。その結果、スロバキアとカルパティア・ルテニアはチェコスロバキアに、トランシルヴァニアはルーマニアに、クロアチアはセルブ・クロアート・スロヴェーン王国に、ブルゲンラントはオーストリア共和国に割譲させられた。 領域の大半を失ったハンガリー国内にはチェコスロバキアに対する敵愾心が生まれ、スロバキアとカルパティア・ルテニアの奪回を目指すようになった。
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