チェコスロバキアの連邦解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 00:30 UTC 版)
「ビロード離婚」の記事における「チェコスロバキアの連邦解体」の解説
歴史的に工業化が進んでいたチェコ共和国(旧・チェコ社会主義共和国)のGDP(国内総生産)は1990年代初頭、スロバキア共和国(旧・スロバキア社会主義共和国)に比べ20%上回っていたが、成長率の伸び悩みが大きな問題となっていて、チェコの政界ではスロバキアが経済的な重荷となって経済成長が妨げられているとの見方が広まっていた。 こうした状況を背景に1991年1月、チェコ共和国はスロバキア共和国に対する経済支援資金の拠出を停止した。当時、多くのチェコ人やスロバキア人は連邦の存続を求めていたが、スロバキアの政界では、1990年のいわゆる「ハイフン戦争」を経て、構成国の自由裁量権を更に拡大した国家連合制への移行や、完全な独立と主権回復を主張する意見が台頭するなど、連邦制の廃止とチェコとの離別が声高に叫ばれ始めた。スロバキアへの分権促進を巡り、連邦政府とスロバキア共和国政府の間では激しい応酬が続いた。 チェコ政界の急進的な市場経済改革論者で、スロバキアの切り離しを主張していたチェコ市民民主党のヴァーツラフ・クラウスは、スロバキア政界の連邦解体論者だった民主スロバキア運動のヴラジミール・メチアルに接近し、連邦解消を提案。同年の連邦議会人民院選挙で、チェコ市民民主党および民主スロバキア運動がそれぞれの共和国の第1党に躍進したことを受け、同年6月から分離に向けた激しい交渉が始まった。 しかし7月17日にスロバキア国民議会が一方的にスロバキア共和国の国家主権宣言(チェコ語版、スロバキア語版)を採択したため、その6日後にブラチスラヴァで開かれた両党の協議で、スロバキア政界の動きを追認する形で連邦解体が正式に合意され、8月26日、ブルノのトゥーゲントハット邸でクラウスとメチアルがチェコスロバキアの連邦解体の合意文書に署名した。 この時、すでにユーゴスラビアでは、同様の連邦離脱問題を巡って内戦が始まっていたが、チェコ、スロバキアの両共和国の交渉は平和的な連邦解体を行うための行政事務手続きの協議に移行した。 連邦議会は11月13日にチェコ、スロバキア両国の領土分割などを定めた「チェコおよびスロバキア連邦共和国資産のチェコ共和国およびスロバキア共和国への分割およびチェコ共和国およびスロバキア共和国への移行に関する基本法」(Ústavný zákon o delení majetku Českej a Slovenskej Federatívnej Republiky medzi Českou Republikou a Slovenskou Republikou a jeho prechode na Českú Republiku a Slovenskú Republiku, チェコスロバキア連邦議会1992年法律第541号)を、11月23日には、連邦の解体を1992年12月31日に行うことを定めた「チェコおよびスロバキア連邦共和国の終了に関する基本法(チェコ語版、スロバキア語版)」(Ústavný zákon o zániku Českej a Slovenskej Federatívnej Republiky, チェコスロバキア連邦議会1992年法律第542号)をそれぞれ採択。これらの基本法に基づいて1993年1月1日午前0時に連邦制が解消された。
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