チェコスロバキアとポーランドの領土問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:36 UTC 版)
「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の記事における「チェコスロバキアとポーランドの領土問題」の解説
シレジアは「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」の一つとして、チェコにとっては歴史的な領有権が主張される地域であった。オーストリア=ハンガリー帝国は地域の民族性に従って境界線を引いており、戦後連合国はオーストリアの行政的区域としてのシレジアとモラビアの間にポーランド・チェコスロバキア国境を設定する予定であった。 しかしテッシェンは両界に存在しており、全体の帰属は曖昧であった。1918年12月、ポーランドは議会の選挙を行ったが、テッシェン市域でも選挙を行うことを告知してテッシェン全体の領有を既成事実化しようとした。ポーランド軍がテッシェン付近に展開したため、1920年1月にチェコスロバキアはポーランド軍の撤退を求めて最後通牒を行い、戦闘状態に入った。戦いはチェコスロバキア優位で動き、2月5日に休戦した。 休戦後、両国は連合国の十人委員会に仲裁を依頼したが、連合国は両国で解決するべきと仲裁を行わなかった。しかし交渉は決裂し、9月には再度十人委員会に調停が求められた。十人委員会は住民投票での決着を決定し、1920年3月に戒厳令が敷かれる中投票が行われた。しかし無効票が多かったため5月19日に再投票が行われたが、投票期間中に暴動が起きて投票は無効となった。十人委員会は投票による決着をあきらめ、テッシェンに流れる川を境界として分割することが決定された。以降、テッシェンはチェスキー・チェシーンとチェシンに分割され、ポーランドは全体の領有を目指すことになる。
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