国家主権宣言
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「エストニアの独立回復」の記事における「国家主権宣言」の解説
詳細は「エストニアの主権宣言(ロシア語版)」を参照 エストニアに様々な政治勢力が林立し始めるなか、1988年10月にモスクワが提示した連邦憲法改定案の第108条は、連邦の構成に関する問題の決定権を連邦人民代議員大会に一任するという内容であった。しかしこれは、形式的に保障されていた連邦離脱権までも制限するものではないか、との各共和国の危惧を呼んだ。すでに対立が激しくなっていた共産党・民族派・人民戦線の三者も、この動向には一致団結して抗議の署名集めを行った。 そしてついに11月16日、エストニア最高会議は賛成258票・反対1票・欠席1で、ソ連構成共和国初の国家主権宣言を採択した。これによって、国内すべての領土資源は共和国に属するものとされ、「連邦法が共和国内で発効するには共和国最高会議の承認を要する」として、共和国法に反する連邦法への拒否権も約束された(賛成254票・反対7票)。しかし、あくまでその内容は、ソ連への併合については「エストニアの主権保持と民族の繁栄が約束された」として強制性を否定し、「エストニアの人民は、エストニア・ソビエト社会主義共和国に住む人々を民族的帰属に関わりなく差別するような法律には同意しない」として、民族間の平等を謳うものであった。 同月26日の連邦最高会議幹部会に出席したエストニア最高会議幹部会 (et) 議長アルノルト・リューテルも、エストニアの主権宣言は連邦を維持するためであると表明した。しかしゴルバチョフは、この動きを「エストニアの経済的孤立主義という取り返しの付かない道を歩ませ、我が国〔ソ連〕の統一経済を破壊する政治的冒険主義」であると激しく非難した。一方でゴルバチョフは「エストニアが直面している数多くの現実的問題は正当である」と認めもしたが、結局、連邦最高会議幹部会はエストニアの主権宣言を無効であると決議し、ゴルバチョフに対するエストニア側の不信は高まっていった。 同月30日にリューテルは連邦最高会議で「連邦であるならば各共和国が拒否権を持つのは当然」と反論し、12月7日にエストニア最高会議は拒否権を再決議した。13日に最高会議は、エストニア語を国家語とする憲法第5条の改定案を承認し(賛成204票・反対49票・棄権4票)、翌1989年1月18日にはその細則を定めた言語法が採択された(憲法採択時の言語法案について、賛成329票・反対10票・棄権4票)。
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