国家主席就任
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中国国民党との国共内戦を経て1949年に中華人民共和国が建国されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任した。1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会副主席の筆頭に位置づけられた。1958年より毛沢東の指示で実施された大躍進政策が失敗に終わると、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任する。毛沢東は中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席にはとどまり、党内序列も毛が1位、劉が2位であったが、国政の最高責任者についたことで形式的には毛を越える地位となった。この年には廬山会議において国防部長の彭徳懐が大躍進政策を批判する上申書を提出、毛がこれを反革命と非難して彭は解任されたが、劉はこの解任決議に同意している。しかし、その後に故郷を視察した際、その疲弊ぶりに衝撃を受けた。 1962年の七千人大会(党中央の拡大工作会議)において、劉少奇は「今回の大災害(中華人民共和国大飢饉)は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を自ら認めた。この大会では出席者からの批判に毛沢東も「社会主義の経験が不足していた」と自己批判を余儀なくされ、これ以降政務の一線を退いた。 劉はこのあと、党総書記の鄧小平とともに市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。こうした政策を毛沢東が「矯正しすぎて右翼日和見の誤りを犯している」という理由から「何を焦っているのか。足下が崩れかかっておるんだぞ。どうして支えようとしないのかね。わたしが死んだらどうするつもりだ!」と批判したのに対して、劉が「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」と答えたエピソードを夫人の王光美が記している。すでに党中央に強い基盤を持っていた劉は、それゆえに毛沢東にとって厄介な存在であった。 この時期、国際的にはソビエト連邦との間で路線の対立が決定的となった。インドネシアなど周辺の非同盟諸国との結束を固めるため、劉は何度かこれらの国々を訪問している。
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国家主席就任
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「グエン・スアン・フック」の記事における「国家主席就任」の解説
2021年3月15日の国会常務委員会で次期ベトナム社会主義共和国主席に推薦される。国家主席就任のためには首相を辞する必要があるため、グエン・フー・チョン国家主席が4月1日に国会に首相解任決議案を提出し、翌4月2日に国会は賛成446、反対6票で首相解任決議を可決、新首相が選出され次第フックは首相を退くこととなった。前首相が国家主席となるのはベトナム史上初となる。
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