林彪と毛沢東の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 17:41 UTC 版)
林彪の妻葉群および四大金剛と呼ばれた部下の将軍黄永勝、呉法憲、邱会作、李作鵬も政治局委員に選出され、林彪の政治的立場も大幅に強化された。しかし文化大革命に際して毛沢東と対立した劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、毛沢東に野心を疑われることになる。 また、林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソビエト連邦の脅威をますます実感するようになった。そのため「二正面作戦をとるのは上策ではない」として、かつては「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。一方、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張したという。しかし林彪グループの一員・呉法憲は、死後に香港で刊行された回想録で「林彪グループは外交政策には特に意見はなく、林彪らがアメリカ接近に反対したというのは事実ではない」と述べている。 なお、林彪事件の翌年1972年2月にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が北京を訪問して毛沢東と会談し、中華人民共和国を事実上「中国の政府」として認めた(ニクソン大統領の中国訪問を参照)。 その後、1970年中共中央九期二中全会などで林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や「毛沢東天才論」を主張して毛沢東を持ち上げ懐柔しようと試みたが、野心を疑い続けた毛沢東に批判されることになる。
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