国家主義の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/15 09:43 UTC 版)
「ルーマニア・モルドバ統一運動」の記事における「国家主義の復活」の解説
1989年9月、ソビエト連邦の自由化が起こり、モルダヴィアSSR議会はモルドバ語を公式言語として宣言し、「モルドバ・ルーマニア言語アイデンティティ」の存在を主張した。1990年5月6日、数十年の厳しい分離を終えてルーマニアとモルダヴィアSSRは一時的に国境通過制限を解除し、多くの人々が国境となっていたプルト川を渡った。 統一を妨げる要因はさまざまで、モルドバとルーマニアの政治的指導者の目標の違い、沿ドニエストルとロシアとの関係、そして重要なことに多くのモルドバ人や一部のルーマニア人にとって無関心であったり否定的であったりすることである。 1991年2月、ルーマニア議会での演説の中で、モルドバの大統領であったミルチャ・スネグルはモルドバ人とルーマニア人の共通意識について語り、「プント川両岸のルーマニア人」に言及している。1991年6月、スネグルはモルドバがルーマニアとの再統一に向かって動くと語り、加えてソ連はそれを止めるために動いていないとした。 多くのモルドバ人の知識人は統一を支援し、「母なるルーマニアとの再統合」 を望むが、1992年の世論調査では大衆の支持は少なく、70%以上のモルドバ人がこれに反対している。 同時期、モルドバ東部でスラブ人が多く居住する沿ドニエストルが自身の思い描く独立のための口実としてルーマニアとの再統一にありうる危険として使われた。
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