行政庁舎の占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:15 UTC 版)
「2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱」の記事における「行政庁舎の占拠」の解説
詳細は「:en:Siege of Sloviansk」および「:en:Battle of Kramatorsk」を参照 4月12日、クリミアで結成されロシア連邦保安庁の元将校イーゴリ・ギルキン率いる覆面武装集団が、ドネツィク州北部の都市スラビャンスクにある執行委員会の建物、警察署、SBU事務所を占拠した。ウクライナの内務大臣アルセン・アバコフは武装集団を「テロリスト」と位置付け、ウクライナの特殊部隊を使って建物を奪還すると誓った。 武装分離主義グループによる警察署やその他政府庁舎の占拠は、主要なクラマトルスク、ドルジュキーウカ、ホルリフカ、マリウポリ、イェナーキイェヴェを含むドネツィク州の他の都市でも発生した。大統領代行のオレクサンドル・トゥルチノフは、建物奪還に向けた本格的な「対テロ」軍事作戦に着手した。 法執行副首相ビタリー・ヤレマは、通常だとモスクワ近郊に駐留する第45パラシュート警備連隊を含むロシア特殊部隊がウクライナ領内のクラマトルスクおよびスラビャンスク市内で活動していると主張した。4月16日、ロシア特殊部隊の数は450人だった。 4月16日までに、ウクライナ政府の実施する「対テロ」作戦は、ドネツィク州で若干の障害に当たった。デモ隊がクラマトルスクでウクライナ側の装甲車を押収し、スラビャンスクで包囲されていた兵士を運び去った。その夜、親露派抗議者約300人が火炎瓶を投げてマリウポリのウクライナ軍を攻撃した。同軍部隊は応戦発砲せざるを得ず、結果的に襲撃者3人が死亡した。 4月17日のジュネーブ宣言は、ドネツィク州政府庁舎占拠の終結をもたらさなかった。四日後の日曜日に、宣言された休戦がスラビャンスクにある分離主義の検問所への攻撃によって破られ、緊張がさらに高まった 緊張が続く4月23日、地域全体で政府庁舎の占拠は続いていた。OSCE監視団は、覆面と自動武器を持つ武装集団によってスラビャンスクの市行政庁舎、SBUの建物、警察署に大きなバリケードが作られた状態なのを視認したが、都市部は平穏を保っており抗議は起きていなかった。しかし、ある住民はスラビャンスク市民が占拠者について自分達の意見を話し合うことを恐れていると語り、覆面武装団だけでなく民間服を着た多くの人々によって同市が厳しい監視下にあることを同監視団は確信していた。 4月24日、ウクライナ軍が反政府勢力に対してスラビャンスクに一連の「探索攻撃」を実施した。分離主義を自称する市長ヴャチェスラフ・ポノマレフは「我々がこの街からスターリングラードを作って見せる」と宣言し、ウクライナ政府は「スラビャンスクの街を完全に封鎖する」として「対テロ」作戦を継続すると述べた。緊張が高まる中、スラビャンスクにいる分離主義者がOSCE軍事検証任務にあたる国際監視団7人(ウクライナ兵5人を帯同させていた)を拘束した。ウクライナ軍の封鎖にもかかわらず都市への往来は規制されておらず、分離主義側のバリケードでは前日に数人が在所した。スラビャンスクの分離主義政権は市民に行政サービスを提供していない、と地元住民は語った。 ドネツク人民共和国が公表したチラシが4月26日に配布され、同共和国による「国家主権」宣言を支持するか否かを尋ねる住民投票を5月11日に実施予定だと市民に通知した。翌朝、OSCE特別監視任務の隊員2人がイェナーキイェヴェにいるドンバス人民兵の非武装兵士の一団に拘束された。彼らは占拠下にある市役所に連行されて尋問され、同監視任務の信任状を確認した後に釈放された。ドネツィク市における大規模な政府支持派の集会は4月28日に発生し、ドネツィク州での暴力およびハルキウ市長暗殺未遂に抗議して行進した。この集会は、バットや鉄の棒、爆竹、盾で武装した分離主義者によって性急かつ暴力的に解散させられた。
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