革命政権
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「アフガニスタン人民民主党」の記事における「革命政権」の解説
1978年、反政府デモが繰り広げられる中、ハルク派のアミーンとつながりを持つ軍人がクーデターを起こしてダーウード政権を打倒した。アフガニスタンの4月革命である。タラキーが革命評議会議長となり、ハルク派とパルチャム派がともに革命政府を構成してアフガニスタン民主共和国を樹立した。 しかし両派の対立はすぐに顕在化し、カールマルが2か月後に駐チェコスロバキア大使に左遷された。パルチャム派を政府から排除したハルク派は、農地改革を含む急進的な改革に着手した。改革が地方反乱をまねくと、今度はハルク派内部で対立が生まれた。1979年9月にタラキーとアミーンが争い、結果はタラキーの失脚に終わった。革命政府は反乱勢力に対抗する必要もあってソ連に対する外交的・軍事的依存を深めたが、ソ連のほうでは急激な改革が抵抗をまねいていると認識していた。 1979年12月に、ソ連はアフガニスタンに軍事介入し(嵐333号作戦)、アミーンを殺害してカールマルを新政権の首班に据えた。農地改革やイスラム的価値に抵触する改革を鈍化させて、政府への反抗を弱めようというもくろみがソ連にはあったが、かえってソ連軍の存在がアフガニスタン人の抵抗と敵愾心をかきたて、アフガニスタン紛争は収拾不能になった。情勢は政権がムハンマド・ナジーブッラーに替わっても好転しなかった。ソ連軍撤退後、1992年に反乱軍に首都を攻略されると、党組織も崩壊した。
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革命政権
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クーデターから2カ月後の1983年10月2日にサンカラは「施政方針演説」(DOP)を発表し、革命の理念として女性の解放、軍隊の社会改良に於ける役割、地方分権化などが示され、「革命防衛委員会」によってDOPの国内への浸透が図られた。以後サンカラは自身を革命家であると看做し、ガーナのクワメ・エンクルマとギニアビサウ及びカーボベルデのアミルカル・カブラルから理論的な影響を受けて社会民主主義、革命的民主主義の立場から帝国主義、新植民地主義の打倒を掲げた。また、オートボルタ社会を「人民」と「人民の敵」に区分し、前者に分類された労働者、農民の立場から、後者に分類されたブルジョワジー、伝統的首長、イスラームのマラブー(聖人)ら従来の政治エリートから特権を奪取しようとした。その政治スタイルはキューバのフィデル・カストロやガーナのジェリー・ローリングスから多大な影響を受けていた。 大統領就任の1年後の1984年には、国名をオートボルタからブルキナファソに変更し、新しい国旗も取り入れ、自ら国歌も作詞した。サンカラ体制下では「人民の敵」と看做されたエリート層への抑圧が進む一方、スポーツの奨励、女性の地位向上、教育と福祉の拡充が掲げられ、識字運動、予防接種の普及、売春の撲滅、鉄道施設などに政策の重点が置かれた。特に女性政策では西アフリカでは初となる女子割礼の禁止を打ち出し、一夫多妻制を禁止して避妊を奨励した。また、アフリカでは最初に大統領として、アフリカが最大のエイズ蔓延地域である事を公式に認めた。 他方、外交に於いてはソ連や中華人民共和国とは一定の距離を保ちつつも、人民民主主義体制を敷くキューバ、アルジェリア、ジンバブエ、モザンビーク人民共和国、アンゴラ人民共和国、北朝鮮などの第三世界の左翼国家との友好関係を打ち出し、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)、西サハラのポリサリオ戦線、南アフリカ共和国のアフリカ民族会議(ANC)、ナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)など民族解放運動を支持した。また反アパルトヘイト運動を支持していたタンザニアやエチオピア、ギニア、赤道ギニア、ナイジェリアとも友好関係にあった。他方、サンカラ政権の急進的な左傾化により旧宗主国フランスのミッテラン政権や、フランスと友好関係にあったコートジボワールのウフェ=ボワニ政権及び領土問題を抱えていたマリ共和国との関係は緊張が続いたが、ガーナのローリングス政権、ガボンのオマール・ボンゴ・オンディンバ政権、ベナン人民共和国とは良好な関係を保ち続けた。 サンカラは民主主義を掲げつつも実際には権力の個人集中と軍部依存が進み、革命体制の組織化には失敗したが、国連総会のために訪れたニューヨークのハーレム地区で演説するなどの行動から民衆からはカリスマ的に慕われ続けた。
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