革命政府への抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:02 UTC 版)
「インドネシア共和国革命政府」の記事における「革命政府への抵抗」の解説
他方、中央政府に抵抗することで同じ旗の下に結集したように見えた闘争委員会のメンバーにも、公然たる国家の分裂という極端な行いにためらいを覚える者がいた。バリアン中佐が率いるガルーダ委員会が代表的である。アフマド・フセイン率いるバンテン委員会の中にさえ、この路線へ反発する指導者やグループがいた。上に見たように地方の政治・軍事指導者は、中央へもある程度陳情や干渉を行うことができた。当時の政治秩序から完全に阻害されていなかったことが、逆にこのような露骨な反乱へ真の意味での支持や牽引力が生まれないことにつながった。 ジャカルタ中央政府も鎮圧の手を緩めず、PRRIに断固として反対した。中央政府は革命政府に指名された閣僚の一部を逮捕し、彼らを支援したABRIの司令官を解任し、スマトラの主要インフラを爆撃するに至った。陸軍参謀長のナスティオンはPRRIを武力で鎮圧する命令を下した。 中央政府がPRRIを抑圧し闘争が不利になってくると、いくつかの地元政党は革命政府から離脱し全国政党へと合流した。彼らのPRRIに対する視線は、最終的に他の政党と比べても厳しいものとなった。
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