革命戦争の情勢
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「リール包囲戦 (1792年)」の記事における「革命戦争の情勢」の解説
8月19日、ラファイエット侯爵ジルベール・デュ・モティエは北方軍(英語版)の指揮から離れて、士官22人とともに対仏大同盟軍の領地に入った。当時、急進化していたフランス立法議会はラファイエットにパリまで出頭して査問に応じるよう命じており、19日には反逆罪で起訴された。プロイセンとオーストリアはフランスがラファイエットをギロチンにかけようとしたことを知らず、1797年までラファイエットを収監した。ラファイエットの後任はより機敏なシャルル・フランソワ・デュムーリエ(英語版)だった。彼はオーストリア領ネーデルラント侵攻を夢見ていたが、事態の発展で延期を余儀なくされた。8月24日、フランソワ・ジョゼフ・ウェスターマン(英語版)が参謀本部にロンウィが弱い抵抗ののち対仏大同盟に降伏したとの知らせを届けた。 デュムーリエはリールを指揮していたアンヌ・フランソワ・オーギュスタン・ド・ラ・ブルドンネ(英語版)に北方軍の北翼の指揮を任せると、ウェスターマンとエー=ド=カン(英語版)(助手)のジャック・マクドナルとともに南下した。 対仏大同盟軍は中央部のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナント率いるプロイセン軍4万2千のほか、右翼にフランソワ・セバスチャン・シャルル・ジョゼフ・ド・クロワ(英語版)率いるオーストリア軍1万5千が、左翼にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・ホーエンローエ・キルヒベルク(英語版)率いるオーストリア軍1万4千が配置されていた。同盟軍はロンウィを砲撃して降伏させた後、9月2日のヴェルダンの戦いで素早く勝利を収めた。デュムーリエはようやくブラウンシュヴァイク公がパリへ進軍していることに気づき、プロイセン軍を追ってグランプレ(英語版)に進んだ。また同時にピエール・リュエル・ド・ベルノンヴィル(英語版)に命じて北方軍から兵士1万を連れて合流するよう命じ、ブレーズ・デュヴァル(英語版)に3,050人を連れてくるよう命じた。そして、9月20日のヴァルミーの戦いの後、ブラウンシュヴァイク公はフランスから撤退した。 デュムーリエがいない状況ではモブージュにはルネ・ジョゼフ・ド・ラヌー(フランス語版)率いる6千人しかいなかった。ジャック・アンリ・ド・モレトン・ド・シャブリアン(フランス語版)率いる4千人はブルイー=サン=タマン(英語版)、サン=タマン=ル=ゾー(英語版)、オルシー(英語版)の間で散らばっており、またほかにはモールデ(英語版)の軍営に4千から5千人が駐留していた。アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンはフランス軍をブラウンシュヴァイク公の対処から引き離すよう、攻撃を仕掛けることにした。テシェン公の軍勢は51個歩兵大隊と40個騎兵大隊であり、うち14個大隊は駐留軍だった。9月3日、ナジミハイー・スタライ・アンタル(英語版)がフィリップヴィルを脅かすのと同時にジャン・ピエール・ド・ボーリュー(英語版)がキーヴラン(英語版)を脅かした。9月5日にマクシミリアン・アントワーヌ・ド・バイエ・ド・ラトゥール(英語版)がトゥルネーからリールに進軍すると、モレトンはモールデの軍営を放棄してスカルプ川(英語版)の向こうまで撤退した。ド・ラトゥールは追撃してモルターニュ=デュ=ノール(英語版)でフランス軍を敗走させた。敗れたフランス軍はモレトンをリンチしようとしたがモレトンはそれをやめるよう説得した。モレトンは後に自軍の多くが命令に従わず、サン=タマンで酔ったり略奪したりしたと訴え、急進派のジャーナリストルイ=マリー・プリュドム(英語版)は後にモレトンが無能か反逆者であると指摘した。
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