革命後の逼迫
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「アンナ・アフマートヴァ」の記事における「革命後の逼迫」の解説
1914年に第二詩集『数珠』を刊行。『夕べ』と同じく愛の喪失をテーマとしながら、その悲哀を克服せんとする方向へ変化を見せはじめたこの詩集は、大絶賛された『夕べ』をもしのぐ成功を収めた。同年に自伝的長詩『海のほとりで』を発表するころには、アフマートヴァに続けといわんばかりに何千人もの女性が詩を書きはじめていた。「アフマートヴァ以前」と「アフマートヴァ以降」を截然と分けるメルクマール的な役割を果たしたといえる。彼女の初期詩篇は、最も痛切で微妙な関係に立ち至った男女の姿を描き出すものが多い。これらは多くの模倣者を生み、のちにナボコフらによるパロディをも生んだ。アフマートヴァは「私は多くの女たちに語る方法を教えたけれど、あの人たちを黙らせる方法だけは分からない」と嘆息せずにはいられなかった。 第一次世界大戦、そしてロシア革命が勃発してまもないころに書かれ、1917年に上梓された第三詩集『白き群』からは、世界の動乱に呼応して宗教的な祈りや救済をテーマとした詩篇が多くなった。アフマートヴァの初期の作品の詩的空間は、ブリューソフも指摘するように個人的な愛をテーマとするためやや閉鎖的なものとならざるをえなかったが、戦争による破壊や荒廃を目にした絶望感を契機として徐々に周囲の世界へと開かれていった。 そして1918年、アフリカのライオンや第一次世界大戦の戦場、そしてパリ娘の売子たちを求めて彼女のもとを去っていったグミリョーフとの離婚が正式に決定し、アフマートヴァは優れたアッシリア学者ウラジーミル・シレイコ(Vladimir Shilejko)と再婚する。芸術家同士の結婚に失敗した傷心を、堅実な学者と結婚して家庭的な生活に入ることで癒そうと考えたためだが、シレイコは文学にはまったく関心をもたない男であった。シレイコはアフマートヴァが詩を書くこと自体を望まず、妻の原稿をサモワールの焚き付けに使ってしまうほど理解のない夫であった。アフマートヴァは思うように詩作を続けることができず寡作になってゆき、1920年には1篇の詩も書けなくなる有様であった。忍耐の限界に達したアフマートヴァは1921年に再び離婚し、サンクトペテルブルクのネフスキー通りに交差するフォンタンカ運河に面した噴水邸(Sheremetev Palaceとしても知られる)に居を移し、詩作を再開する。 この年、ニコライ・グミリョーフは反革命的宣伝文書作成という罪状で秘密警察によって銃殺された。その後スターリン体制下において多くの詩人や芸術家が処刑されることになるが、グミリョーフはその最初の一人となったのである。すでに関係を清算していたとはいえ、かつての夫であり同じアクメイストの詩人であるグミリョーフの死はアフマートヴァに衝撃を与えた。またこの一件は、やがて息子レフの将来に悪影響を及ぼすこととなる。 1920年代に入ると、現代ロシア詩における二つの対照的な潮流の担い手としてアフマートヴァとマヤコフスキーを並べて論ずる文学者が現れてきた。代表的な論考としては批評家コルネイ・チュコフスキー(Korney Chukovsky、児童文学作家としても知られる)による講演『二つのロシア』を改稿した評論『アフマートヴァとマヤコフスキー』が知られる。この評論の中でチュコフスキーは、アフマートヴァを過去の文学的伝統の継承者として、マヤコフスキーを未来の文学の開拓者として対比させ、同時代の文学を複眼的に考察した。しかし、やがて文壇も革命後の熱狂の中で政治色が増し、アフマートヴァのような詩人は旧世代に属する反革命的な存在だという論調が強まることとなる。革命前から活躍していた作家やボリシェヴィキそのものに順応しない作家にさえ寛容であったレーニンやトロツキーが死去ないし失脚してゆく中で、御用学者たちによる「愛について語るばかりで、労働についても革命的群衆についても語らないアフマートヴァの詩は反革命的である」という極論が党の公式見解となってゆき、マヤコフスキー本人も、個人的にはアフマートヴァを高く評価する一方で、芸術左翼戦線(LEF)などの公の席上では批判の声を上げるようになっていったのである。 またこのころにロシア・フォルマリズムの批評家ボリス・エイヘンバウム(Boris Eichenbaum)はアフマートヴァの詩的言語に関する論考において、日常言語的な層と聖書風の用語の層との二重性を「情熱に身を焦がす淫乱女か、あるいは神の赦しを請う修道女か」と喩えたが、この比喩はのちに文化相アンドレイ・ジダーノフによって彼女自身に対する攻撃の文句として用いられることとなった(ジダーノフ批判参照)。
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