革命成就から国家指導者へ
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「ナリマン・ナリマノフ」の記事における「革命成就から国家指導者へ」の解説
1920年2月11日から12日にかけてバクーで秘密裏に開催されたアゼルバイジャン共産党第1回大会において、ナリマノフはウラジーミル・レーニンとともに名誉議長に選出された。同年4月27日には、ナリマノフが欠席状態のままアゼルバイジャン臨時軍事革命委員会(ロシア語版)の議長に選出され、翌28日には人民委員会議議長および外務人民委員に就任した。 そして4月27日から28日の夜、バクーで労働者と共産主義者の武装蜂起が始まった。同時に赤軍第11軍が国境を越えてアゼルバイジャン民主共和国へ侵攻を開始した。バクー作戦(ロシア語版)によって、ミュサヴァト党政権は打倒され、アゼルバイジャンにおいてソビエト体制が樹立された。 翌5月16日、特別列車でナリマノフはバクー駅に到着した。到着を報じる新聞の見出しに大きな活字で「Xoş gəldiniz(ようこそ)」と印字される程の大変な歓迎ムードであった。共産党系の『コミュニスト(アゼルバイジャン語版)』紙では、すでに「ムスリム・ソビエト社会主義共和国の指導者」と呼ばれていた。その後19日まで、ナリマノフは臨時軍事革命委員会議長であった。 5月25日、ギャンジャで旧民主共和国軍の駐屯軍の指揮官とその将校らの一斉解任に対する反発に端を発する1800人の軍人からなる駐屯軍による大規模な反乱が起きた(ギャンジャ蜂起(アゼルバイジャン語版))。反乱は赤軍によって31日までに鎮圧されるが、街は略奪され、約千人の反乱兵は殺害され、旧民主共和国軍の将校は次々と逮捕拘束された。 名将の誉れ高いサメド・ベイ・メフマンダロフ(ロシア語版)とアリ・アガ・シフリンスキー(ロシア語版)も逮捕され、チェーカーによって屈辱的な取り調べを受けた。しかし、メフマンダロフ将軍とシフリンスキー将軍をモスクワに送致する際に一緒にレーニン宛てに添えられた、両将軍は反乱に関与していない旨をしたためたナリマノフの手紙によって彼らの命が救われている。 9月1日から7日にかけて、バクーで東方諸民族大会が開催され、1900人の代表が出席した。そして東方諸民族大会の執行委員会は宣伝・行動会議メンバーに、ムスタファ・スプヒ(英語版)、ミルザ・ダヴド・グセイノフ、セルゲイ・キーロフ、セルゴ・オルジョニキゼ、ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー、エレーナ・スターソヴァ(ロシア語版)らとともにナリマノフを選出した。 12月22日から29日にかけてモスクワで開催された第8回全ロシア・ソビエト大会(ロシア語版)にはナリマノフも出席し、全ロシア中央執行委員会(ロシア語版)のメンバーに選出されている。また、翌1921年1月初頭にモスクワ在住のムスリム共産主義者による会議が開かれた際には、ナリマノフがその議長を務めた。 1921年5月21日に開催されたアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国中央執行委員会の第1回幹部会においては、ムフタル・ガジエフ(アゼルバイジャン語版)、サメド・アガ・アガマリ・オグルィらとともにアゼルバイジャン最初の憲法を承認した。 1922年3月12日、ナリマノフはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の政府首班に当たる連邦会議議長(アゼルバイジャン共和国代表・初代)となり、翌1923年1月15日まで在任した。領土紛争の解決において、ナリマノフはナゴルノ・カラバフ自治州の帰属問題で重要な役割を果たし、その結果、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの一部であり続けた。 カリスマ性を持つ穏健なナショナリストであったナリマノフは、ヨシフ・スターリンの親友でありザカフカース地方で共産党を指導するセルゴ・オルジョニキゼと統治方針を巡り衝突した。この紛争の結果、ナリマノフはオルジョニキゼによってザカフカースに直接的に関わる政治的なポストから外されようになり、モスクワに異動となる。 1922年12月30日に初召集されたソビエト連邦中央執行委員会の第1回会議の決議により、ナリマノフは幹部会の共同議長(ザカフカース連邦共和国代表・初代)に選出された。1923年4月25日からは全連邦共産党(ボリシェヴィキ)の中央委員候補であった。また、アゼルバイジャン共産党中央委員でもあった。 1924年のナリマノフは政府の業務と継続しながら、ソビエト連邦中央執行委員会および東方勤労者共産大学の東洋研究所で講義を行っている。プラウダとイズベスチヤと協力して、同年1月に死去したレーニンの業績に関する出版(『レーニンとイスラム教徒の東』、『イスラム教徒から見たレーニン - その並外れた名声』、『レーニンと東洋』、『レーニンのいない活動の年』)に向けて準備を行った。加えて彼の科学的に分析した研究(『共産主義を理解する方法』、『人民の質問』)についても執筆した。 ナリマノフはアゼルバイジャン共和国人民委員会議議長を1922年5月7日まで。翌1921年5月まで外務人民委員に就いた。また1922年、ナリマノフは最初のソビエト代表の一員として国際会議であるジェノア会議に参加した。
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