革命後の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 14:00 UTC 版)
「ワシリー・カメンスキー」の記事における「革命後の活動」の解説
カメンスキーは、他の未来主義者と同じく、1917年の十月革命を歓迎し、モスクワ・ソビエトの労働者と兵士の代理に選出された最初の作家の一人だった。赤軍で文化活動を実施。 11月、カメンスキーは、モスクワのパン屋であるフィリッポフ(彼の店は二月革命と1905年のモスクワ蜂起における闘争拠点だった)を説得し、詩人のための小さなカフェを助成かつ組織する。1919年、彼は『ステンカ・ラージン』を劇へと改作した。ロバート・リーチは、以下のように書いている。 この最も説得力のあるバージョンは、モスクワのヴヴェデンスキー人民の家で発表されたときに、非常に強い印象を与えた。ステンカ・ラージンはモスクワ芸術座のニコライ・ズナメンスキーが演じた。この劇は、パヴェル・クズネツォフが魅力的な幼稚かつ原始的なスタイルで構成され、フセヴォロド・メイエルホリドの元生徒アルカディ・ゾノフと、ヴェラ・コミサルジェフスカヤにちなんで名付けられた劇場の元コミサルジェフスキーのパートナーであるワシリー・サクノフスキーが監督した。ある批評家は、「大成功」と書いたが、それは少なくとも「通りとサーカスが混み合っている」ことを根拠とした。演劇は完全に直接的かつ簡素な形式を採用しており、道化には満ちているが、未来派の方法的主張は最小限のものしか打ち出さず、どこか民話の味わいを表現していた。 以後は、カメンスキーの活動は縮小していく。 1923年に、カメンスキーはマヤコフスキーの組織したレフグループのメンバーとなったが、特に大きな役割を果したわけではなかった。1931年には、回想録『愛好家の道』を執筆。また、同年、愛国詩『エメリャン・プガチェフ』を、1934年には『イワン・ボロトニコフ』を執筆した。 1930年代の終わり頃から、カメンスキーは血栓性静脈炎を患い、両脚を切断した。この頃、カメンスキーはヴァレリー・チカロフと親しくなった。しかし、1938年チカロフは事故死。 1942年には、『マリアン・コヴァル』のオペラ台本を作成。これは、キーロフ劇場で上演され、1943年、スターリン賞を受賞した。 1948年4月19日、脳卒中を起こし、1961年に死ぬまで麻痺が続いた。なお、彼が1932年から1951年でペルミ地方のトロイツァの村に住んでいた家は現在ワシリー・ワシリエヴィチ・カメンスキー記念博物館になっている。これは、ペルミ地方で唯一の文学博物館である。 息子のアレクセイ・ワシリエヴィチ・カメンスキー(1927年-2014年)は画家であり、非順応的なグラフィックアーティストであり、モスクワの非公式アートの重要人物であった。
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