革命後の国内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:17 UTC 版)
革命後、人々は国王という共通の敵を失い、政治集団内では新体制を巡り激しい権力闘争に突入した。最終的にホメイニーを頂点とするイスラーム法学者が統治する体制が固まり、そこではイスラム法が施行されるイスラーム的社会が目指されることになった。 しかし、イランにはイスラームの他にも少数ではあるが複数の宗教が存在している。このような宗教少数派の一部、すなわちキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒は、公認の宗教少数派としてイラン・イスラーム共和国憲法第1章第13条で認められている。彼らが運営する私立小学校では、教育省が作成した宗教少数派用の教科書に従って宗教教育を実施することが義務付けられている。 イランのロウハーニー大統領によれば、イランには二級市民は存在せず、いずれの宗教に属していても憲法のもと平等な市民権を有しているという。 しかし、憲法においてはイスラム教徒に加えてゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒に対し宗教儀礼の自由が認められており、非シーア派のムスリムに対して“完全な敬意”を払わなければならないと定められている(第12条)ものの、これらの4宗教から外れる宗教の信者は、教育権や参政権などの基本的人権も保障されておらず、とりわけ無神論者やバハイ教徒は、国内における生活自体が認められていない。 バハイ教徒であったモナ・マフムードニジャードは、バハイ教徒として改宗を拒み、また子供たちに対してバハイ教について教えた罪により、1983年に処刑された。
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