革命後の建物の処遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 03:36 UTC 版)
「ウズベキスタン外務省迎賓館」の記事における「革命後の建物の処遇」の解説
1917年にロシア革命が起きソビエト連邦が実権を握ると、ソビエト連邦政府は宮殿の博物館内に政府機関を置いた。このため、ニコライは1918年に死亡する前に宮殿博物館の一角をタシュケントの街へと寄贈した。ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公は1918年1月に肺炎で亡くなった。大公と彼の親戚に関する情報に関する詳細はニコライ・コンスタンチノヴィチの項目を参照のこと。 大公が提供した絵画などのヨーロッパやロシアの美術蒐集品やサンクトペテルブルクから運ばれてきた美術品は1919年に建設されたタシュケント美術館 (後のウズベキスタン国立美術館) の礎となった。ウズベキスタン国立美術館は中央アジアの美術館の中で最も高価なヨーロッパ絵画のコレクションを所蔵している。 1940年代後半から1970年代まで使用された後、ウズベキスタン国立美術館は新たな建物へと移転することとなり、残された場所には1990年までウズベキスタン国立応用美術館が設置されることとなった。 建物は現在、ウズベキスタン外務省の迎賓館として利用されている。
※この「革命後の建物の処遇」の解説は、「ウズベキスタン外務省迎賓館」の解説の一部です。
「革命後の建物の処遇」を含む「ウズベキスタン外務省迎賓館」の記事については、「ウズベキスタン外務省迎賓館」の概要を参照ください。
- 革命後の建物の処遇のページへのリンク