アゼルバイジャン民主共和国とは? わかりやすく解説

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アゼルバイジャン民主共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/28 09:05 UTC 版)

アゼルバイジャン民主共和国
آذربایجان خلق جمهوریتی (アゼルバイジャン語)
1918年 - 1920年
国旗 国章
国の標語: !بیر کره یوکسلن بایراق، بیر داها ائنمز(アゼルバイジャン語)
一度掲げられた旗は決して降りない
国歌: آذربایجان مارشی(アゼルバイジャン語)
アゼルバイジャン行進曲

アゼルバイジャン民主共和国の地図
公用語 アゼルバイジャン語
首都 バクー
国民議会英語版アゼルバイジャン語版議長
1918年 - 1920年 メフメト・エミーン・ラスールザーデ
面積
8万6,600km2km²
人口
(2022年:国連人口基金) 1,030万人人
変遷
独立 1918年5月27日
共和国廃止 1920年
現在 アゼルバイジャン

アゼルバイジャン民主共和国(アゼルバイジャンみんしゅきょうわこく、アゼルバイジャン語: Azərbaycan Xalq Cümhuriyyəti / آذربایجان خلق جمهوریتی)は、1918年から1920年にかけてアゼルバイジャンに存在した国家である。アゼルバイジャン人民共和国とも称する。

ロシア革命にともない、民族主義政党を中心として独立を果たしたが、イギリス軍に占領されたためにやってきたロシア社会主義連邦ソビエト共和国赤軍バクーを陥落されてアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国に発展的解消する。

歴史

1918年5月、民族主義政党のミュサヴァト党が中心となりギャンジャで独立宣言を行い、9月にはバクーを征服した。イスラーム教徒が主体となって樹立したイスラム世界初の共和国だが、政教分離、信教の自由を定めた世俗憲法を持ち、多党制による議会政治が図られた。1919年パリ講和会議にも代表を派遣した。しかし、ナゴルノ・カラバフなどをめぐってアルメニア第一共和国と戦争に突入し、議会も多党制で安定せず、さらにバクーが石油の産出地であり軍事戦略的に重要な都市であったことから、政治的独立を維持することは極めて困難であった。1920年、赤軍によってバクーが征服されてソビエト政権が成立し、アゼルバイジャン民主共和国は2年ともたずに滅亡した。その後、ロシア共産党はアゼルバイジャンとグルジアアルメニアを統一し、1922年末にザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を成立させた。

文化


アゼルバイジャン民主共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 03:20 UTC 版)

アゼルバイジャンの軍事史」の記事における「アゼルバイジャン民主共和国」の解説

新しく建国され民主共和国議会重要な成果中には女性へ参政権拡大があり、アゼルバイジャンイギリスアメリカなどの先進国よりも先に女性男性同等政治的権利与え世界初イスラム国家となったADRのもう1つ重要な成果は、アゼルバイジャン初めての近代大学であるバクー国立大学設立である。 現代アゼルバイジャン軍歴史は、1918年6月26日アゼルバイジャン共和国軍創設されたアゼルバイジャン民主共和国(ADR)にさかのぼる。ADR事実上初代国防大臣はKhosrov bey Sultanov博士であった正式に国防省設立されると、Samad bey Mehmandarov大将大臣になり、Aliagha Shikhlinskiが副大臣就任したADR軍の参謀総長にはHabib Bey Salimov少将1918年8月1日-1919年3月26日)、 Mammad bey Shulkevich中将1919年3月26日1919年12月10日)とAbdulhamid bey Gaytabashi少将1919年12月10日1920年4月28日)が就いている。 アゼルバイジャン民主共和国の著名な将軍一部次のとおり。 Samad bey Mehmandarov中将 (1855–1931) Ali-Agha Shikhlinski中将 (18651943) Huseyn Khan Nakhchivanski副将 (1863–1919) Abdulhamid Bey Gaytabashi少将 (1884–1920) Habib Bey Salimov少将 (1881–1920) Ibrahim bey Usubov少将 (1875–1920) Murad Girey Tlekhas少将 (1874–1920) Emir-Kazim Mirza Qajar少将 (1853–1920) Mammad Mirza Qajar少将 (1872–1920) Aliyar-Bek Gashimbekow少将 (1856–1920) David-Bek Edigarow少将 (1881–1920) Firidun-Bey Wezirow少将 (1850–1925) Khalil-Bey Talishkhanov少将 (1859–1920) 1920年4月28日赤軍アゼルバイジャン侵攻した新設されアゼルバイジャン軍大部分は、カラバフ勃発したばかりのアルメニア反乱鎮圧行っていたが、アゼルバイジャン人は、1918年からの僅か2年間の独立をすぐには簡単に放棄することはなく、アゼルバイジャン軍総勢3万人兵士のうち2万人が、事実上ロシア再征服抵抗して死亡したアゼルバイジャン国軍ボリシェヴィキ政府によって廃止され21人の陸軍将軍のうち15人がボリシェヴィキによって処刑された。

※この「アゼルバイジャン民主共和国」の解説は、「アゼルバイジャンの軍事史」の解説の一部です。
「アゼルバイジャン民主共和国」を含む「アゼルバイジャンの軍事史」の記事については、「アゼルバイジャンの軍事史」の概要を参照ください。

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