Muradとは? わかりやすく解説

Murad

名前 ムラド; ミュラッド; ミュラド; ムラートムラード

ムラード

(Murad から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/17 07:20 UTC 版)

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ムラード
Murad
ムガル帝国皇子
ムラードと弟ダーニヤール

出生 1570年6月7日
ファテープル・シークリーサリーム・チシュティーの家
死去 1599年5月12日
ジャルナープル
配偶者 ハビーバ・バーヌー・ベーグム
子女 ルスタム
アーラム
イファト・ジャハーン・バーヌー・ベーグム
父親 アクバル
母親 サリーマ・スルターン・ベーグム
宗教 イスラーム教スンナ派
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ムラード(Murad, 1570年6月7日 - 1599年5月12日)は、北インドムガル帝国の皇帝アクバルの次男(ただし、夭折した兄2人がいるので正確には四男である)。

生涯

1570年6月7日、ムガル帝国の皇帝アクバルとその妃サリーマ・スルターン・ベーグムの息子として生まれる[1]

1594年末以降、ムラードは帝国の武将アブドゥル・ラヒーム・ハーンとともにデカンへ遠征した。

だが、ムラードは遠征中、アブドゥル・ラヒーム・ハーンとよく意見の対立から衝突するようになった。アブル・ファズルの著書「アクバル・ナーマ」では、その原因の多くをアブドゥル・ラヒーム・ハーンとしているが、同時にムラードの経験不足、邪な取り巻きにも目をむけている。

この対立においては、ムラードの後見役サーディク・ムハンマド・ハーン・ヘラーティーがよく仲介にあたったが、1597年に彼は死亡している。ムラードとアブドゥル・ラヒーム・ハーンとの関係は悪化の一途をたどり、ムラードはアクバルに苦情の書簡を送り、アブドゥル・ラヒーム・ハーンは解任を申し出た。

最終的に両者の対立は、アブドゥル・ラヒーム・ハーンが帝都アーグラに赴いて弁解し、1599年初頭にアブル・ファズルがムラードに帰還の命を伝えるためデカンに派遣され、デカンは代わりにミールザー・シャー・ルフに任されることとなった。

同年中頃、アブル・ファズルがムラードの陣営に向かった際、ムラードはアブル・ファズルとの面会を拒否するため、アフマドナガル王国の領土にさらに進行した。そして、これは不首尾に終わり、酒に浸るようになった。

同年5月12日、ムラードは過度の飲酒により、28歳で死去した。アブル・ファズルはムラードの陣営から30キロの地点に着いたとき、新たな後見役ミールザー・ユースフ・ハーン・レザウィーからムラードの危篤の知らせを受け取とったが、到着前にムラードは死亡した[1]。アブル・ファズルは結局、その死をアクバルに伝えることが役目となった。

脚注

  1. ^ a b Delhi 4

参考文献

  • フランシス・ロビンソン、月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。 
  • アンドレ・クロー、杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年。 
  • S・スブラフマニヤム、三田昌彦、太田信宏訳 『接続された歴史 インドとヨーロッパ』 名古屋大学出版会、2009年。 

関連項目



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