アブドゥル・ラヒーム・ハーンとは? わかりやすく解説

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アブドゥル・ラヒーム・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/31 07:42 UTC 版)

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母とともにアフマダーバードに向かうアブドゥル・ラヒーム・ハーン(アクバル・ナーマ1561年

アブドゥル・ラヒーム・ハーンウルドゥー語: عبدالرحيم خانخان‎, ヒンディー語:अब्दुल रहीम ख़ान, Abdul Rahim Khan, 1556年12月7日 - 1627年)は、北インドムガル帝国の大臣(ディーワーン)であり作曲家。バイラム・ハーンの息子でもあり、父と同じハーン・ハーナーン(Khan Khanan)の称号を保持していた。

生涯

アクバルと幼少期のアブドゥル・ラヒーム・ハーン

1556年12月7日ムガル帝国の宰相であり摂政のバイラム・ハーンとその妻であるジャマール・ハーン(メーワートの出身の人物)の娘との間に生まれた。

1560年、父バイラム・ハーンは失脚したのち、1561年メッカ巡礼に赴くさなかに暗殺された。そのため、アクバルがアブドゥル・ラヒーム・ハーンを引き取った[1][2]

アブドゥル・ラヒーム・ハーンはアクバルの息子らと同等の扱いを受け、継母サリーマ・スルターン・ベーグムもアクバルの妃となった[1][3]

アブドゥル・ラヒーム・ハーンはアクバルに大変重用され、大臣(ディーワーン)の一人となったばかりか、その重要な家臣団であるナヴァラトナの一員となった[1][2]。さらにはその皇子ムラードの後見人にもなった。

1627年、アブドゥル・ラヒーム・ハーンはアーグラで死亡した[4]。この年にはアクバルの孫シャー・ジャハーンが皇帝となっている。

脚注

  1. ^ a b c クロー『ムガル帝国の興亡』、p81
  2. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p263
  3. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p236
  4. ^ Abdur Rahim khan-i-khana’s tomb

参考文献

  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社2001年 
  • アンドレ・クロー; 杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局2001年 

関連項目




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