バイラム・ハーンの追放
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帝国軍はヘームーの軍を大量虐殺しながら進み、同月7日にアクバルは帝都デリーに入城した。また、アクバルの治世に敬意を払っていたアーグラなどデリー周辺の都市も帝国に帰順した。アクバルの母も状況が安定するとカーブルを出発し、彼女らがパンジャーブに近づくと、アクバルは自ら一日かけて母親を出迎えに行った。それから2年後の1558年には、帝都がデリーからアーグラへと遷都された。 さて、バイラム・ハーンはアクバルの摂政として権勢を誇った。だが、彼はいささか傲慢で権力に対して執着するところもあり、またタールディー・ベグの処刑は後を引いたことも相まって、貴族らは反感を抱いていた。そのうえ、彼が宮廷で大多数を占めるスンナ派ではなくシーア派を信仰しており、自身の彼が支持者やシーア派の者を高官に任じたことは古参の貴族から無視されていると非難を買った。 また、バイラム・ハーンは後宮勢力とも対立していた。それにはアクバルの王室の出費や、アクバルが叔父ヒンダールの娘ルカイヤ・スルターン・ベーグムのみならず、カームラーンの親族の女性とも結婚しようとしたことでアクバルとバイラム・ハーンとの間に面倒なやりとりがあった。後宮の女性の存在はバイラム・ハーンにとっては脅威であった。 そのうえ、アクバルが自身の地位や統治に責任を持つようになると、バイラム・ハーンとの対立が鮮明になった。彼はまたバイラム・ハーンを「バーバー・ハーン」(父なるハーン)と呼びつつも、皇帝を凌ぐ権力を持つ彼を内心では恐れ、その掣肘を煩わしく思うようになっていた。アクバルは後宮を支配していた母のハミーダ・バーヌー・ベーグム、乳母頭のマーハム・アナガ、その息子アドハム・ハーンという相談相手を得て、バイラム・ハーン失脚の陰謀をひそかに企てた。 こうして、1560年3月、ついにバイラム・ハーンの失脚計画が実行された。アクバルはマーハム・アナガらの知恵を借り、バイラム・ハーンの失脚計画を実行した。まず、アクバルはバイラム・ハーンとともに首都アーグラを離れて狩りに出かけ、マーハム・アナガはデリーにいるアクバルの母が病に倒れたとの嘘の知らせをアクバルに入れた。アクバルは病気見舞いを口実にバイラム・ハーンのもとを離れてデリーに向かい、バイラム・ハーンはアーグラへと戻った。また、ムヌイム・ハーンはマーハム・アナガの要請で、バイラム・ハーンがアクバルの代わりにミールザー・ハキームを利用しないよう、彼を連れてデリーに赴いていた。 だが、計画したのがマーハム・アナガだと分かった場合、彼女はバイラム・ハーンに報復される可能性があった。そこで、彼女はアクバルを一旦デリーの外に出させ、そこからバイラム・ハーンとのやり取りをさせた。こうして、アクバルはバイラム・ハーン解任を宣言する旨の勅令をだし、バイラム・ハーンもこれを了承し、クーデターは成功したのである。 アクバルはバイラム・ハーンに彼は帝国を自身で統治するという旨を伝え、メッカ巡礼を命じて引退を勧告し、バイラム・ハーンもこれに従って巡礼に向かった。だが、バイラム・ハーンは自身の宰相位が部下のバハードゥル・ハーンに与えられたことで屈辱を味わい、さらにはグジャラートに着いたとき自分に恩のある部下ピール・ムハンマド・ハーンが追討に向かってきたと知り、パンジャーブに戻ってついに反乱を起こした。 バイラム・ハーンの反乱は半年の間は続いた。アクバルはアトガ・ハーンを追討に向かわせ、バイラム・ハーンはジャランダルの戦いで敗れ、反乱は鎮圧された。その後、バイラム・ハーンはムヌイム・ハーンに自身の摂政の称号が与えられたことを知り、アクバルに反乱を謝罪し、降伏する旨の文書を送った。 バイラム・ハーンはアトガ・ハーンに捕えられ、アクバルの面前に引き出されたが、アクバルは親切に迎え入れ、自身の私的顧問か地方の太守として働くか、あるいはメッカに巡礼するか再び選択肢を与えた。バイラム・ハーンはメッカ巡礼を選び、グジャラートへと赴いた。 1561年1月31日、バイラム・ハーンはアフマダーバード近郊のパータンでアラビア半島へ出発する手はずを整えていたさなか、彼に個人的な恨みのあるアフガン人によって殺害された。アクバルは彼の死を悼み、その妻サリーマ・スルターン・ベーグムと息子アブドゥル・ラヒーム・ハーンはアクバルに引き取られ、前者はアクバルの妃となり、後者はのちにアクバルの大臣となった。
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