ザバイカル共和国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ザバイカル共和国の意味・解説 

ザバイカル共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 09:21 UTC 版)

トランスバイカルコサック共和国
Забайкальская белая государственность
1918年 - 1920年
(国旗)
国の標語: なし
公用語 ロシア語ブリヤート語
首都 チタ
統領
1918年 - 1920年 グリゴリー・セミョーノフ
面積
1920年 613,000km²
人口
1897年 672,037人
変遷
建国 1918年8月25日
消滅 1920年11月21日

ザバイカル共和国(ザバイカルきょうわこく)、あるいはザバイカル軍事政府[1]とは、極東ロシアのザバイカルに設置された共和国。グリゴリー・セミョーノフが日本の支援で立ち上げた。しかし、 1919年には味方である白軍が敵対する赤軍に敗れてしまい、さらに 1920年4月6日には、ヴェルフネウジンスクで緊急に招集された制憲議会が極東共和国の樹立を宣言した。その後、5月14日には日本軍も極東共和国との会談に同意した。会談は同月24日からゴンゴタ(ロシア語版)の鉄道駅で開かれ、日本側は、統一極東政府の形成過程においてザバイカル共和国政府が対等な一翼を担うよう主張した。しかし、極東共和国側はこの要求を拒否し、会談は行き詰まった。7月3日には日本軍がシベリアからの撤兵を布告した。ザバイカル共和政府が日本軍の支援なしに存続し得ないことを理解していたセミョーノフは、日本側に撤兵を4か月遅らせてくれるよう求め、また沿海州ゼムストヴォ(ロシア語版)に対して合併を持ちかけたりもしたが、いずれも不調に終わった。 7月17日、極東共和国代表とシベリア駐留日本軍代表は緩衝国建設覚書(ロシア語版)を締結した。日本軍の後ろ盾を失った白軍は南東へ撤退し、中国領へ退却する準備を始めた。僅かな部隊のみがチタに留まり、シベリア鉄道の封鎖を続けた。9月には臨時東ザバイカル議会が発足し、セミョーノフはそれに民政権力を移譲した。時を同じくして、独立したパルチザンを装った極東共和国軍の部隊がチタへ侵入し、9月15日にはネルチンスクの東ザバイカル労働者議会が革命委員会の樹立を宣言した。10月15日には日本軍がチタから撤兵し、赤軍は白軍守備隊に降伏を要求した。白軍はこれを拒絶したが、赤軍は19日からチタへ進軍を始め、22日にチタを占領した。25日、極東共和国政府はチタへ移転した。10月には臨時東ザバイカル議会はネルチンスク地方革命委員会との合同会議において解散を宣言し、極東共和国へと編入された。

脚注

  1. ^ 「セミョーノフ」,『日本国語大辞典』,小学館



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ザバイカル共和国」の関連用語

ザバイカル共和国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ザバイカル共和国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのザバイカル共和国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS