アゼルバイジャン民主共和国体制の打倒
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「チンギス・イルディリム」の記事における「アゼルバイジャン民主共和国体制の打倒」の解説
ボリシェヴィキに入党したイルディリムは十月革命に際して冬宮襲撃(ロシア語版)に参加した後、新しく設立されたソビエト国際連合委員会で働き、ロシア・ソビエト共和国の人民委員部の下でムスリムを所管する事務局に所属した。イルディリムは、後に「イルディリミエ」と呼ばれるムスリム労働者赤軍を創設することを提案した。最初のイルディリミエは1918年6月にペトログラードとシマルに結成された。また彼はペトログラード労働者・兵士代表ソビエト(ロシア語版)の代議員に選出された。『Qızıl Şimal(黄金のシマル)』と『Hürriyyət(自由)』の新聞を発刊した。1919年にシュシャに帰還したイルディリムは、共産主義の宣伝活動を続け、カラバフ(ロシア語版)の副総督に就任する。なお、カラバフの正総督は従兄でアゼルバイジャン民主共和国の国防大臣と農業大臣を務めるホスロフ・ベイ・スルタノフ(アゼルバイジャン語版)であった。1920年3月22日から26日の期間、シュシャ虐殺(アゼルバイジャン語版、英語版)と呼ばれるシュシャでのアゼルバイジャン人によるアルメニア人の虐殺(アゼルバイジャンからすれば、シュシャでのアルメニア人の蜂起)が起こる。イルディリムは8月に首都バクーに召喚され、ミュサヴァト党が第一党で政権を握っていたアゼルバイジャン民主共和国体制の期間、彼はボリシェヴィキ党員であったのにも関わらずアゼルバイジャン海軍の副指令と港湾局長の地位を与えられた。彼はロシアに石油を輸送する特別海軍遠征隊を創設した。 1920年4月27日、赤軍第11軍がバクーを侵攻した時、イルディリムはアゼルバイジャン民主共和国政府の打倒に重要な役割を果たした。赤軍艦隊の安全を図るため、バクーの沿岸にある強力な長距離砲とバクーのバイロヴォ(ロシア語版)地区の標高最高地点にある大砲を、イルディリム率いる7隻の軍艦(内5隻は大規模で強力な大砲を搭載する)で破壊する任務を請け負った。彼は27日早朝、6000人のバクー防衛用の将兵を率いてバクー士官学校に入り、士官候補生たちを武装解除した。更にバイロヴォの兵器庫を押収し、沿岸の軍港と造船所を掌握。バイロヴォ刑務所(ロシア語版)も占領してそこに収監されていた政治犯を解放したが、その囚人の中には、著名な革命家ダダシュ・ブニアザーデらが含まれていた。また、カスピ海のバクー湾に浮かぶ対岸のナルギン島(英語版)を砲撃しながら包囲し占領した。4月28日、イルディリムはアゼルバイジャン民主共和国の議会に「ボルシェヴィキに2時間権力を引き渡さない場合、議会に突入する」と最後通牒の布告を出した。彼は23か月続いたアゼルバイジャンの独立状態の幕引き役となった。バクーでソビエト権力を樹立する上で重要な役割を果たしたチンギス・イルディリムは、4月28日に成立したアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の初代陸海軍人民委員に任命された。これらの功績により、チンギス・イルディリムは赤旗勲章を授与された最初のアゼルバイジャン人となった。
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