ヴェルダンの戦い
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ヴェルダンの戦い(ヴェルダンのたたかい、Battle of Verdun)は、第一次世界大戦の西部戦線で、フランス共和国内のヴェルダンを舞台に繰り広げられたドイツ軍とフランス軍の戦いである。第一次世界大戦における主要な戦いの一つで、1916年2月21日に始まり、両軍合わせて700,000人以上の死傷者を出した。
- ^ 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第二巻)』p.27
- ^ Elis,John & Cox,Michael. The WORLD WAR 1 DATABOOK(Aurum Press.1993/2001)p.272
- ^ “第1次世界大戦の兵士、1世紀を経て埋葬 フランス”. AFP (フランス通信社). (2013年11月12日) 2013年11月17日閲覧。
- 1 ヴェルダンの戦いとは
- 2 ヴェルダンの戦いの概要
- 3 背景
- 4 結末
- 5 出典
ヴェルダンの戦い
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「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ヴェルダンの戦い」の解説
詳細は「ヴェルダンの戦い」を参照 風雪による9日間の遅延の後、ヴェルダンの戦いは1916年2月21日に開始された。熾烈な8時間の事前砲撃の後にドイツ軍はヴェルダン要塞の周囲に配置されている堡塁群に接近していった。火炎放射器などを用いたドイツ軍に対してフランス軍は激しく抵抗したが、ドゥオモン要塞(英語版)が占領された。しかしフランス軍に増援が到着し始め、2月28日にはドイツ軍の進撃が鈍り出した。 ドイツ軍は目標をル・モルトンム丘(Cumières-le-Mort-Homme)に転換し、5月にはこの丘の占領に成功した。ドイツ軍はジホスゲンガスなどを用いて6月7日にヴォー要塞(英語版)を攻略し、ヴェルダンから1キロの位置にまで迫ったが、ロシア軍(6月4日、ブルシーロフ攻勢)、イギリス(7月1日 、ソンムの戦い)およびイタリア(8月6日、第六次イゾンツォの戦い)の他戦線での攻勢により攻撃を止めた。 夏の間には移動弾幕射撃に習熟したフランス軍が少しずつ前進し、1916年12月にはヴォー要塞を奪還した。
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ヴェルダンの戦い
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西部戦線では2月21日、ヴェルダンの戦いが始まった。作戦の発案者ファルケンハインが1920年に出版した著述によると、後世に残った印象と違い、ヴェルダンの戦いは無目的にフランス軍に「出血」を強いるものではなかったという。彼はその著述で攻撃の失敗を弁護し、「血の水車」という伝説に反論しようとした。ヴェルダン攻撃を着想したのはドイツ第5軍の指揮官ヴィルヘルム皇太子で、参謀コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ(英語版)がその任務を受け持った。ヴェルダンの要塞はフランス国内で最も堅固な要塞だったが、1915年にはその武装が一部解除されており、ドイツ軍部はヴェルダンを攻撃することで西部戦線に活気をもたらそうとした。また、ドイツ軍から見るとヴェルダンは東のサン=ミーエル(英語版)と西のヴァレンヌに挟まれたフランス軍の突起部であり、ドイツ軍の前線を側面から脅かしていた。ヴェルダンの占領自体が戦闘の主要な目的ではなく、マース川東岸の台地を占領することで大砲をヴェルダンを見下ろせる位置に配置することができ、ヴェルダンを守備不能にすることが目的だった。ファルケンハインは、フランスが国威を維持するために(普通ならば受け入れられない損害を出してでも)ヴェルダンを死守すると考えていた。しかし、ドイツ軍の計画が成功した場合、フランスがヴェルダンを維持するためにはドイツ砲兵の占領した高台を奪回しなければならず、1915年の戦闘の経験からは不可能だと思われた。 ヴェルダンの戦いの第一段階において、ドイツ軍第5軍の8個師団は大砲1,500門で8時間にわたって箱型弾幕を放った。この砲撃はヴェルダンの北にあるオルヌ(英語版)(現代では消滅集落)で長さ13kmの前線にわたって行われた。ドイツ軍の予想と違い、フランス軍が激しく抵抗したため当初はほとんど前進できなかった。ドイツ軍は2月25日にドゥオモン要塞(英語版)を占領したが、要塞が東向きだったため戦術的にはあまり重要ではなかった。しかし、ドゥオモン要塞を失ったフランスは何としてもヴェルダン要塞を死守しなければならないと決定、ヴェルダンの守備にフィリップ・ペタン将軍を任命した。フランスはバル=ル=デュックとヴェルダンを繋ぐ唯一の道路(神聖街道(英語版)と呼ばれた)で、兵士を交替させる補給システムを築いた(このシステムはノリア(ドイツ語版)と呼ばれた)。ヴェルダンの戦いの第一段階はフランス砲兵がマース川西岸の台地から砲撃してドイツ軍の進軍を停止させたことで3月4日に終結した。 第二段階ではファルケンハインがドイツ第5軍からの圧力で、これらの台地への攻撃を許可した。台地のうち、ドイツ軍はル=モルトーム(英語版)(「死人」の意)という台地を何度か奪取したが、すぐに奪い返された。ル=モルトームとその隣の304高地はヴェルダンの戦いで残忍な戦闘が起こったため「ヴェルダンの地獄」(Hölle von Verdun) の象徴とされている。 第三段階ではドイツ軍が再びヴェルダンの占領に集中、6月2日にヴォー要塞(英語版)への強襲を開始した。23日には兵士7万8千でヴォー=フルーリー線(英語版)への攻撃を開始したが、戦況は膠着した。直後の第四段階ではドゥオモンのすぐ南にあるティオモン堡塁(フランス語版)をめぐって激しい戦闘が行われた。そして、ドイツの攻勢はヴェルダンから北東約5kmのスーヴィル要塞(フランス語版)で行き詰まった。7月11日、ファルケンハインは攻勢が行き詰まったことと、7月1日に連合国軍が攻勢に出てソンムの戦いが開始したことを理由に攻勢の停止を命じた。
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