ヴェルダンの反攻とジョフルの辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「ヴェルダンの反攻とジョフルの辞任」の解説
フランス軍は秋にヴェルダンで反撃に転じた。10月24日、フランス軍はドゥオモン要塞とティオモン要塞を占領した。その後、フランス軍が更に攻勢に出たため、ドイツ軍は12月2日にヴォー要塞から撤退した後にそれを爆破した。結局、ドイツ軍が春に占領した陣地は12月16日までに全てフランス軍に奪回された。 ヴェルダンの戦いにおいて、ドイツ軍は337,000人の損害(うち死者143,000人)を出し、フランス軍は377,000人の損害(うち死者162,000人)を出した。少なくとも3,600万発の砲弾が約30km x 10kmの戦場で投下された。 フランス軍最高司令官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍がヴェルダンに攻撃した目的の判断を誤り、さらに第二次シャンパーニュ会戦(英語版)やソンムの戦いで大損害を出したにもかかわらず全く前進できなかったことで批判を浴び、12月3日にロベール・ニヴェル将軍に最高司令官の座を譲った。ニヴェルはヴェルダンでの反攻を率いて勝利しており、翌年の連合国軍春季攻勢を率いる指揮官として抜擢されたのであった。当時、フィリップ・ペタンもヴェルダンでの守備に成功して「ヴェルダンの英雄」と呼ばれたが、守備を主導したこともあって受け身すぎると考えられたのだった。
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