ヴェルダン条約とメルセン条約による帝国の分割
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「フランスの歴史」の記事における「ヴェルダン条約とメルセン条約による帝国の分割」の解説
詳細は「西フランク王国」、「東フランク王国」、「中部フランク王国」、「ヴェルダン条約」、および「メルセン条約」を参照 ルートヴィヒ1世が840年に没すると、彼の3人の息子であるロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル2世らが、ルートヴィヒ1世の所領をめぐって争いが始まる。この争いは841年のフォントノワの戦いで火蓋が切られ、この戦いを受け、842年にはシャルル2世とルートヴィヒ2世がロタール1世に対抗するために同盟を組む。この同盟は歴史家ニタール(英語版)によって「ストラスブールの誓い」として書き留められた。この文書はフランス語およびドイツ語による最古のテキストとなっている。843年のヴェルダン条約によってフランク王国の所領が西フランク王国が、中央フランク王国、東フランク王国の三分割された。その後、870年9月に中部フランク王国のロタール2世が没すると、領土の見直しが行われ、メルセン条約が結ばれる。これによって現在のフランス・ドイツ・イタリアの礎となる西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国が成立した。 この時代より、北方のノルマン人による襲撃が始まる。特に対ノルマン人との戦いの中で目立った活躍をした人物に、パリ伯ウードがいる。フランク王国の中央集権は、ヴェルダン条約以降、衰退の一途をたどる。上述のような恩貸地制度の崩壊なども相まって、877年にシャルル2世によって発布された勅令は、それを禁ずるものであるが、それはまさしく、フランク王国の中央集権の衰退を象徴している。こうした中央集権の衰退は、結果として地方分権を推し進め、フランス各地に大小様々の荘園が発生したとされる。この頃の西フランク王国は、北方からのノルマン人(ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはサン=クレール=シュル=エプト条約によってノルマン人のロロにノルマンディーの地を封じた(ノルマンディー公国)。後にノルマンディー公がイングランドの王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。地方の領邦権力の成長につれ、王権は弱体化し、9世紀末に西フランク王国は領邦君主や司教によって王位の世襲制が廃止され、これを選挙に変えた。
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