ヴェルダン条約を超えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 17:59 UTC 版)
ロシアはクリミア戦争やシベリア鉄道等に多額の融資を必要としてきた。この需要に対して各国同様、ドイツの銀行団も貸していた。ロシア・ドイツ間の取引は1822年の600万ポンド借款まで遡る。翌年にルドウィッグ・スティグリッツ(英語版、ドイツ語版)はベアリングス銀行とホープ商会の協力を得て4千万ルーブルを起債した。 大局的には1848年革命でウィーン体制が動揺し、ユグノーに寛大なプロイセン王国が台頭した。ここでより大切な点は経済的国情であり、プロイセンはメリノ・ウールの無敵ともいえる国際競争力を武器とし、特にロシアに対する経済的な影響力を獲得したのである。カトリックのハプスブルク帝国としては、ライバルの羊毛生産に貢献したコッカリル(Cockerill)をベルギーの金融シンジケートに落ち着け、またローマ教皇とも息を合わせて啓蒙思想による産業合理化を進めた。しかし普墺戦争に敗れてしまった。 ベルギーがラテン通貨同盟に参加していた。そこでアウスグライヒの1867年9月、親ハンガリーかつ新教徒迫害歴のあるザルツブルクでフランツ・ヨーゼフ1世がナポレオン3世と会見した。ナポレオン3世は同年4月、オットー・フォン・ビスマルクにルクセンブルク買収計画を挫かれていた。ナポレオン3世はリソルジメントに対する影響力を用いて教皇庁を守るという連携に出たが、普仏戦争に敗北して武力的な戦略がとれなくなった。しかし、ドイツがイタリアにもつ経済的な影響力は資金力が脆弱な兼営銀行に限定されていた。そしてアルザス・ロレーヌを奪われたフランス大資本がベルギーを通してロシアへ投資を繰り出すようになった。
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