メルセン条約とは? わかりやすく解説

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メルセン‐じょうやく〔‐デウヤク〕【メルセン条約】

読み方:めるせんじょうやく

870年オランダメルセン(Mersen)で、東フランクルードウィヒが弟の西フランク王シャルル結んだ条約855年死去した長兄ロタール遺領中部フランク分割定めたもので、これによってドイツ・フランスの分離がほぼ確定した


メルセン条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 00:26 UTC 版)

メルセン条約で定められた国境
  シャルル2世の領域
  ルートヴィヒ2世の領域
  ロドヴィコ2世の領域

メルセン条約(メルセンじょうやく、: Vertrag von Meerssen: Traité de Meerssen)は、870年8月8日メルセンにおいて、フランク王国の領土の再画定を定めた条約。中部フランク王国の一部を治めていたロタール2世の死去に伴い、東フランク王国の王ルートヴィヒ2世西フランク王国の王シャルル2世とが締結した。

経緯

843年ヴェルダン条約により、フランク王国は三分割されていた[1]。そのうちの中部フランク王国855年プリュム条約英語版ロタール1世の死に伴い、その3人の息子ロドヴィコ2世(神聖ローマ皇帝 ルートヴィヒ2世)、ロタール2世シャルル(カール)によってさらに分割され、それぞれイタリア・ロタリンギアプロヴァンスを治めることとなった。しかし863年にシャルルが死去し、その領地は兄ロドヴィコ2世及びロタール2世の間で分割された[2]。さらに869年にロタール2世が嫡出子を残さずに死去した際[2]、当時ルートヴィヒ2世は病床にあり、ロドヴィコ2世もイスラムとの闘いの真っ只中であったことから、シャルル2世が同年9月9日にメスでロタリンギア王として戴冠した[3]。これに対しルートヴィヒ2世も後にロタリンギアの相続権を主張し、その結果、ルートヴィヒ2世とシャルル2世の間でロタール2世の遺領(ロタリンギア)の分割を取り決めたのがメルセン条約である[4][5]。この結果、ロドヴィコ2世はイタリア王国のみの領有が許され、メッツおよびアーヘンを含むロートリンゲン東部[4]および上ブルグントの大半は東フランク王国に、ロートリンゲン西部およびプロヴァンス[4]は西フランク王国に組み込まれることとなった。ロートリンゲン西部に関しては後に880年リブモン条約において東フランク王国に移譲された[6]。これによって、現在のイタリアドイツフランスの原型が形作られた[4]

脚注

  1. ^ "ヴェルダン条約". 旺文社世界史事典 三訂版. コトバンクより2023年5月16日閲覧
  2. ^ a b 成瀬, 山田 & 木村 1997, p. 90.
  3. ^ 瀬原 2012, p. 50.
  4. ^ a b c d 成瀬, 山田 & 木村 1997, p. 91.
  5. ^ 柴田, 樺山 & 福井 1995, p. 171.
  6. ^ "リブモン条約". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年5月16日閲覧

参考文献

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