中部フランク王国とは? わかりやすく解説

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中部フランク王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 13:20 UTC 版)

中部フランク王国
Francia media
843年 - 855年


843年
公用語 古オランダ語英語版
古フリジア語
古高ドイツ語
古ザクセン語
古フランス語
古イタリア語イタリア語版
宗教 カトリック
首都 アーヘン
国王
843年 - 855年 ロタール1世
変遷
ヴェルダン条約 843年
プリュム条約 855年

中部フランク王国(ちゅうぶフランクおうこく、: Mittelreich: Francie médiane)は、ヴェルダン条約によるフランク王国の分裂によって、東フランク王国西フランク王国の中間に、カール大帝の孫で神聖ローマ皇帝の称号を持つロタール1世領土として建てられた王国である。中フランク王国ロタール王国ロタール領ロタールの国と呼ぶこともある。

843年ヴェルダン条約によって国土は、イタリアブルゴーニュプロヴァンス、西アウストラシアに及んだ。領土が入り組んだ形になったのは重要拠点を中部フランク王国が取得したからであるが、その諸民族を統率するべき歴史的、民族的、あるいは地理的一体性もない人為的な建国で、その維持は困難であった。855年ロタール1世の死後、遺領は息子たちがプリュム条約英語版に基づきこれをロタリンギアプロヴァンスおよびイタリアに3分して治め、870年メルセン条約で、それぞれ東フランク王国(国王ルートヴィヒ2世)、西フランク王国(国王シャルル2世)、イタリア王国(国王ロドヴィコ2世)に割譲された。

国王

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