帝国分裂とは? わかりやすく解説

帝国分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「帝国分裂」の解説

フランク族には「領土相続権長子のみに与えるのではなく分割相続させる」という慣習存在した。この慣習明らかに統一国家維持理念相反していた。ピピン3世にもカール大帝にも共に国土分割した兄弟がいたが、共同王たちは隠居する早世するかしたため王国早いうちに一人の王の支配戻ったカール大帝三人の息子たちにもフランク族伝統に従って分割相続する手筈整えられていた。しかし兄二人相次いで大帝に先だったため、末弟ルートヴィヒ全て相続したのである。そして、ルートヴィヒ1世敬虔帝の治世分割相続問題点一気噴出したルートヴィヒ1世敬虔帝は分割相続統一国家維持妥協点見出そうとしたが、自らの我儘台無しにして帝国混乱させた。まず817年39歳前後敬虔帝は「帝国整備令」を発布22歳前後長男ロタール1世には共同皇帝地位帝国本土を、20歳前後次男ピピンにはアキテーヌを、13歳前後三男ルートヴィヒにはバイエルン与え分割統治案を定め分権統一王国創出図った。しかし823年敬虔帝が45歳位のときに四男カール2世誕生してしまった。敬虔帝はカール2世溺愛し、この末弟にも領土与えることを決めた三兄弟激しく抵抗し三度渡って反乱起こした敬虔帝は妥協前言撤回繰り返しつつ、隙あらばカール2世領土与えようとした。三兄弟敬虔帝を二度廃位追い込んだが、懐柔されたり兄弟間で仲違いしたりとまとまりがなかった。838年次男ピピン41歳前後死去840年敬虔帝も62前後死去した。しかし、父という共通の敵がいなくなったことで兄弟領土を巡る対立頂点迎えたロタール1世の代に、とうとう帝国解体した。841年フォントノワの戦い46歳前後皇帝ロタール1世37歳前後ルートヴィヒ2世18歳カール2世三者会戦帝国全土領有せんとする皇帝対しルートヴィヒ2世カール2世同盟を結び、皇帝軍を撃破した843年8月10日ヴェルダン条約結ばれて三人兄弟それぞれフランク人の王であることが確認された。これをもって帝国カール2世シャルル2世禿頭王の西フランク王国ルートヴィヒ2世ドイツ人王の東フランク王国、そして皇帝中部フランク王国分裂したロタール1世帝位保たれたものの東西フランク王国対す宗主権失われた855年9月29日プリュム修道院にて皇帝60歳前後死去した30歳前後長男ルートヴィヒ2世ロドヴィコ2世ドイツ人王とは異なる)に皇帝称号イタリア20歳前後次男ロタール2世ロタリンギアロレーヌ)とブルグント北部など、10歳前後三男カールシャルル)にプロヴァンスブルグント南部などが分割相続された。こうして中部フランク王国三分された結果フランク王国5つにまで分裂してしまった。 ルートヴィヒ2世ロドヴィコ2世)はイタリア一部支配したのみで、帝国全体皇帝として権威を示すことはできなかった。863年末弟シャルル18歳前後相続人なく死去したシャルル遺領皇帝と弟ロタール2世の間で分割された。皇帝プロヴァンス王位獲得してイタリア王国併合した869年にはロタール2世嫡出子がないまま34歳前後死去した。しかし、この時の皇帝イスラム軍との戦いのためにイタリアから離れられなかった。この隙にロタール2世領(ロタリンギア)はメルセン条約により、叔父ドイツ人王と禿頭王の間分割されてしまった。皇帝にはイタリアのみが保たれ現在のフランスドイツイタリア原型が形づくられた。875年8月12日皇帝本人嫡子無く50前後死去イタリア王国およびローマ皇帝位は教皇ヨハネス8世支持得たカール王が52歳獲得したカール2世帝国再統一目指した。西フランクイタリア帝位手に入れたカール2世は、残る東フランク併合しようとした876年に兄のドイツ人王が72歳死去するアーヘンケルン侵攻。しかし同年10月8日、既に40歳前後壮年達していたドイツ人の子たちにアンデルナハの戦いで敗北した。翌877年反対勢力鎮圧のためイタリア入ったものの、ドイツ人王の長男である東フランクカールマン大軍アルプス越え近づいてきたため撤退した。その帰国途中サヴォワにて54歳死去した。子のルイ2世30歳前後西フランク王継いだが、イタリア王国47歳位のカールマン獲得した2年後カールマン病を得身体が不自由になり、弟ルートヴィヒ3世カール3世肥満王にそれぞれ東フランク王位イタリア王位譲った。翌880年カールマン50前後死去同年新たな東フランクルートヴィヒ3世は父と叔父分割していたロタリンギア全てリブモント条約東フランク編入し、父の代からの領土相続争い収拾させた。一方881年2月21日イタリア王カール3世ローマにて42歳前後皇帝として戴冠された。 カール3世分裂していた帝国相続によって一時的に統一した882年には47歳前後死去したルートヴィヒ3世遺領相続し東フランク全土手中に収めた。西フランクでもルイ2世879年32前後死去し、後を継いでいたカルロマン884年嫡子無く18歳前後死去したこのためカール3世西フランクをも相続した。全フランク相続したカール3世だが、この時期ヨーロッパへ侵攻していたノルマン人イスラム教徒そしてマジャール人対処する力量がなかった。887年肥満帝は廃位されてしまい、翌888年49歳前後死去する帝国再度分裂した帝国ヴァイキング撃退功績があったロベール家ウード36歳前後)の西フランクカールマン庶子アルヌルフ38歳前後)の東フランクプロヴァンスボソ遺児カール3世養子だったルートヴィヒ3世ルイ3世カール3世の兄とは異なる。当時8歳前後)のプロヴァンス在地領主ルドルフ1世28歳前後)が国王となったブルグント敬虔帝の外孫ベレンガーリオ1世38歳前後)のイタリア分かれたこの後カロリング帝国再統一されることはなかった。

※この「帝国分裂」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「帝国分裂」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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