ローマにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:42 UTC 版)
「トゥールのベレンガリウス」の記事における「ローマにて」の解説
1054年に、ヒルデブラント枢機卿はローマ教皇特使としてフランスにやってきた。彼はまずベレンガリウスに友好的な態度を示し、次に、ローマに戻ってきて、ベレンガリウスの敵をも沈黙させるレオ9世の権威に服することを提案した。しかしベレンガリウスがその友人たちよりも教会の平和をかき乱す以上のことができることにヒルデブラントが気づいた時には、彼はもう帰還していた。 こうした状況下でベレンガリウスは教説に関してできるだけ譲歩しようと決め、フランスの司教たちは論争が速やかに解決されることを望んでいると表明した。聖餐におけるパンとワインは聖別の後にはキリストの肉と血「である」(聖変化)とベレンガリウスが明文化して認めたことに満足するという声明がトゥールの教会会議で出された。和平に対する同様の意欲と教皇レオの死(4月19日)のために、ヒルデブラントはベレンガリウスに直ちにローマへ来るよう圧力をかけることはなかった。 ベレンガリウスはその後1059年にローマへ行き、ジョフロワ伯からヒルデブラントへの称賛の手紙によって強化された。ラテランで開かれた会議において、彼は何も聴取できず、彼にとって聖餐を最も肉体的にとらえているように思われるような明文化をされた教義を受け入れるように要求された。ベレンガリウスは力に圧倒されて、この文書を手に取ると明白な服従の沈黙の中でその身を大地に横たえた。
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