帝国内部への信仰拡散と迫害殉教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:53 UTC 版)
「キリスト教の歴史」の記事における「帝国内部への信仰拡散と迫害殉教」の解説
さらにキリスト教がディアスポラを通じてローマ帝国内に広まっていくと、ローマ帝国政府当局により迫害を受け、多くの殉教者を出した。これにはローマ帝国が元々多神教国家であった事や東方の影響によって発生した皇帝崇拝にキリスト教徒が従わなかったことなどいくつかの理由がある。特にネロ、ドミティアヌス、デキウス、ディオクレティアヌスといった皇帝のもとで迫害が行われたとされるが、ディオクレティアヌスによる迫害を除いてあまり大規模なものではなく、そのディオクレティアヌスによる迫害でさえそれほど大規模であったかは疑問とされる。迫害事例の地理的広がりから、2世紀末には、ローマ帝国全域に教会は組織を広げていたと推測される。また3世紀にはエジプトから砂漠での隠修修道が広まり、独居あるいは集団で荒野で修道生活を行う者(修道者)が多数出た。 1世紀後半から2世紀までの教会内文献(使徒的教父文書)などからの推測によると、この頃、エルサレムのヘブライスト(ユダヤ系)教会と、シリアやエジプトのヘレニスト(ギリシア系)教会とで異なる文化圏の教会が形成されていたが、使徒たちがそれぞれの文化圏を認めていた。カトリック教会によれば、ヘブライスト教会は使徒(司教)と長老(司祭)、ヘレニスト教会は監督(司教)と執事(助祭)と、組織体型(ヒエラルキ)が異なった特徴を持っており、やがて全土の教会において司教、司祭、助祭というヒエラルキが普及するようになる。
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